
映画『友だちの恋人』は
1987年に公開されたエリック・ロメール監督作です。
『飛行士の妻』『美しき結婚』『海辺のポーリーヌ』
『満月の夜』『緑の光線』に続く
「喜劇と格言劇(Comédies et Proverbes)」シリーズ
第6作で最終作です。
原題は 『L'Ami de mon amie』。
直訳すれば「私の友だちの友だち」。
日本語タイトルの「友だちの恋人」も含めて、
最初からこの映画は、人間関係が
「誰と誰を結びつけるのか」という問題を提示している。
舞台は、パリ郊外のニュータウン、
セルジー=ポントワーズ。
そこに暮らす若い男女4人の恋愛が、
まるで幾何学模様のように交差していく。
そして最後には、
最初とはまったく違う
「組み合わせ」が出来上がる。
しかし、
この映画の面白さは、
単なる恋愛の「組み替え」ではない。
ロメールはそこに、
人は、
自分が好きだと思っている相手を、
本当に好きなのだろうか?
という、
恋愛についての根本的な疑問を
忍び込ませている。
あらすじ
4人の男女
恋愛の「組み合わせ」が少しずつ狂っていく
主人公は
ブランシュ。

パリ郊外の
新都市セルジー=ポントワーズ
で市役所に勤める、
内気で真面目な若い女性だ。
ある日、
昼食の席で
女子学生のレアと知り合う。

性格は対照的。
ブランシュは
慎重で控えめ。
一方のレアは、
スポーツ好きで行動的、
恋愛にも比較的自由な女性だ。
ところが、
この正反対の二人が
不思議なほど気が合い、
親しい友人になる。
レアには
恋人ファビアンがいる。

彼はスポーツ好きで、
ウインドサーフィンなどを
楽しむ青年。
そしてもう一人、
レアの知人として
現れるのが
アレクサンドル。

こちらはファビアンとは
対照的なタイプ。
都会的で洗練され、
女性の扱いにも慣れた
プレイボーイだ。
ブランシュは、
このアレクサンドルに
一目惚れする。
しかし――。
ここからが
ロメールである。
ブランシュは恋に落ちたのに、
自分から積極的に動くことができない。
アレクサンドルは魅力的だが、
彼には恋人がいる。
しかもブランシュは、
レアの友人になったばかり。
「友だちの恋人を好きになるなんて……」
そんな気持ちが、
彼女をさらに臆病にする。
一方、
レアとファビアンの関係にも
微妙な亀裂が入っている。
そして、
ある時からファビアンが
ブランシュに惹かれ始める。
すると、
ブランシュ
アレクサンドル
レア
ファビアン
という最初の関係が、
少しずつ崩れていく。
さらに
アレクサンドルとレアの間にも、
何とも言えない相性の良さが見えてくる。
つまり4人の感情が、
A → B → C → D
という具合に、
次々と別の方向へ
流れ始めるのである。
ロメールは、
この「誰が誰を好きなのか」
という情報を一気に説明しない。
会話の中で少しずつ明らかにする。
だから観客は、
登場人物たちと一緒になって、
「え? この人、本当はこの人が好きなの?」
と発見していくことになる。
これが、この映画の
最大の楽しさだ。
恋愛映画なのに
「ドロドロ」にならない
普通なら、
この設定はかなり危険だ。
友人の恋人を好きになる。
恋人が別の女性に惹かれる。
さらに
その女性が別の男と親しくなる。
少し間違えば、
昼ドラのような三角関係、
四角関係になる。
ところがロメールは、
これをドロドロした
メロドラマにしない。
なぜか。
登場人物たちが、
あまりにも普通に
しゃべっているからだ。

カフェで話す。
街を歩く。
プールへ行く。
公園にいる。
スポーツをする。
食事をする。
その何気ない
日常会話の中で、
恋愛感情が少しずつ変化していく。
ロメールにとって恋愛とは、
「突然、雷に打たれるように起きる事件」
ではなく、
人と人が話しているうちに、
気づかないところで形を変えていくもの
なのである。
この映画の本当の主役は
「4人の気持ちのズレ」
『友だちの恋人』で
最も面白いのは、
誰も悪人ではないことだ。
ブランシュも悪くない。
レアも悪くない。
ファビアンも悪くない。
アレクサンドルも、
少なくとも典型的な悪役ではない。
それなのに、
なぜか恋愛関係が
ぐちゃぐちゃになっていく。

原因は、
「自分が思っている自分」
と
「他人から見える自分」
が一致していない
からだ。
ブランシュは、
自分はアレクサンドルが
好きだと思っている。
しかし、
本当に彼女に合っているのは
誰なのか?
レアは自由奔放な女性に見える。
しかし、
本当に彼女が求めている男性は
誰なのか?
アレクサンドルは女性に慣れた
プレイボーイに見える。
しかし、
彼が「理想の女性」として語るタイプは、
現実の彼の行動と一致しているのか?
この
「自己認識と現実のズレ」が、
恋愛を動かしていく。
そして、
それが非常に可笑しい。
どこが「喜劇」なのか?
ここで
「喜劇と格言劇」という
シリーズ名が重要になってくる。
ロメールの「喜劇」は、
大爆笑を狙うコメディではない。
彼が笑いの材料にするのは、
人間が恋愛について
真剣に考えれば考えるほど、
その言葉と行動が
食い違ってしまうこと
なのだ。
たとえば登場人物たちは、
恋愛について
実にもっともらしいことを話す。
「私はこういうタイプの男性が好き」
「私は自由な恋愛がいい」
「彼とは趣味が合う」
「彼女とは性格が違う」
ところが、
実際の行動を見ていると、
その理屈がどんどん崩れていく。

ここが笑える。
つまり、
「私は自分のことをよく分かっている」
と思っている人間ほど、
自分の本当の感情を分かっていない。
ロメールは、
その矛盾を優しく、
しかし非常に鋭く笑う。
「シェイクスピア的な恋愛喜劇」になっている
本作は海外の紹介でも、
シェイクスピア的な
「恋愛の輪舞」と評されている。
これは非常に的確な表現だ。
シェイクスピアの喜劇では、
「AはBが好き」
「BはCが好き」
「CはAが好き」
というように、
恋愛感情が錯綜する。
そして最後には、
思いがけない組み合わせが成立する。
『友だちの恋人』もまさにそれ。
ただしロメールの場合、
剣も決闘も大げさな変装もない。
あるのは、
会話、
視線、
散歩、
食事、
偶然の出会い。
それだけでシェイクスピア的な
恋愛喜劇を作ってしまう。
では、「格言」は何なのか?
ここが本作の核心である。
映画の冒頭に掲げられる格言は、
「友だちの友だちは友だち」
――フランス語では、
「Les amis de mes amis sont mes amis」
ということわざである。
つまり、
私の友達の友達なら、
私にとっても友達だ
という、
ごく普通の人間関係についての言葉。
しかしロメールは、
この格言を恋愛に持ち込む。
すると、
友だちの友だちは、
恋人にもなり得るのでは?
という、
とんでもない問題が発生する。
「友だちの恋人」は、
誰のものなのか?
タイトルそのものが、
この格言を
少しねじったものになっている。
「友だちの友だちは友だち」。
では、
「友だちの恋人」は?
友だちだから、
自分にとっても親しい人なのか?
それとも、
絶対に手を出してはいけない
相手なのか?
ロメールは、
この倫理的な境界線を
真正面から説教することはない。
代わりに、
「もし好きになってしまったら?」
と問いかける。
ここがロメールらしい。
彼は、
「友達の恋人を好きになるのは悪い」
とも、
「愛は自由だから仕方がない」
とも言わない。
ただ、
人間関係を観察する。
すると、
最初は絶対に動かないと
思われた関係が、
少しずつ変化していく。
実は「格言」は、
映画の途中で反証される
この映画の巧妙なところは、
格言が単純に正しいとは限らないことだ。
「友だちの友だちは友だち」。
確かにそうかもしれない。
でも、
恋愛関係になると話は変わる。
友達の恋人に恋をしてしまったら?
友情と恋愛の境界線はどこにある?
そもそも
「友達」と
「恋人」を
分けているものは何なのか?

ロメールは、
このことわざを「人生の正解」
として使うのではなく、
恋愛によって、
その格言がどこまで
通用するのかを実験する。
だから「格言劇」なのである。
そして、もう一つ重要なのが
「ニュータウン」
『友だちの恋人』では、
舞台そのものが重要だ。
それがパリ郊外の
セルジー=ポントワーズ。
ロメールは都市計画にも
強い関心を持っていた。

フランスのシネマテークによれば、
ロメールはこのニュータウンを、
単なる背景ではなく、
映画の「登場人物」のように扱っている。
彼は、従来の映画が
未来都市の圧迫感を強調したのに対し、
ここでは「新しい生活」の魅力を
映像にしたいと考えていた。
ここが面白い。
この街は新しく、
計画され、
整然としている。
道路も建物も、
広場も住宅も、
すべてが幾何学的に配置されている。
ところが、
その「完璧に設計された都市」の中で、
人間の恋愛だけは、
まったく計画通りに進まない。
これは非常に
ロメールらしい皮肉だ。
都市は計画できる。
建物も計画できる。
生活空間も計画できる。
しかし、
恋愛だけは計画できない。
都市の幾何学と、恋愛の幾何学
だから
『友だちの恋人』は、
実は非常に「映像的」な作品でもある。
人物が、
広場から広場へ移動する。
道を歩く。
建物の中に入る。
プールへ行く。
公園へ行く。
水辺へ行く。
そのたびに、
人物同士の距離が変わる。

最初は、
ブランシュ――レア
ファビアン――レア
アレクサンドル――誰か
という関係だったものが、
街の中を移動するにつれて
変わっていく。
つまり、
都市の空間そのものが、
恋愛関係を動かす装置になっている。
ロメールは
「80年代の若者」を撮っている
もう一つ、
本作を今見る価値がある。
それは、
1980年代フランスの若者文化が、
そのまま画面に残っていることだ。
ファッション。
家具。
ニュータウン。
スポーツ。
レジャー。
恋愛観。
そして、
「都会的で洗練された生活」
への憧れ。

『友だちの恋人』は、
単なる恋愛コメディではなく、
1980年代フランス社会の
若い男女の生活を記録した映画でもある。
だから今見ると、
恋愛映画であると同時に、
1980年代のフランス人は、
どんな街に住み、
どんな服を着て、
どんな恋愛をしていたのか
を見ることのできる
貴重な映画でもある。
そしてロメールは
「恋愛の正解」を教えない
この映画を見ていると、
「ブランシュはファビアンと一緒になればいい」
「レアにはアレクサンドルが合っている」
などと、
観客は自然に考え始める。
しかし、
ロメールは観客に答えを教えない。
むしろ、
あなたは、
誰と誰が一番
お似合いだと思いますか?
と問い返してくる。
そして、
映画が進むにつれて、
自分自身の予想まで裏切られていく。
それが楽しい。
この映画が
「喜劇と格言劇」シリーズの
最終作である意味
『友だちの恋人』が
シリーズ最後の作品なのも象徴的だ。
「喜劇と格言劇」シリーズは、
1980年代の女性たちの
恋愛や幸福の探求を描いてきた。
そして最後にロメールが選んだのは、
「友だちの友だちは友だち」
という、非常に単純なことわざだった。

ところが、
この単純な言葉を恋愛に適用すると、
人間関係は途端に複雑になる。
友情。
恋愛。
欲望。
嫉妬。
自己認識。
偶然。
これらが全部絡み合う。
つまり、
単純な格言ほど、
現実の人間には簡単には当てはまらない。
そこに、
このシリーズの最終作らしいユーモアがある。
まとめ
『友だちの恋人』とは、
「恋愛とは、
自分自身を知るためのゲームである」
という映画
『友だちの恋人』を一言で言うなら、
自分が誰を好きなのかさえ、
人は自分では完全には分からない
という映画だ。
「喜劇」として見るなら、
自分では
真剣に恋愛しているつもりなのに、
外から見ると、
その言動がいかにも滑稽に見えること。
「格言劇」として見るなら、
「友だちの友だちは友だち」
という単純なことわざを、
恋愛という複雑な世界に放り込んで、
その限界を試すこと。
そして、
その二つが合体することで、
「人間は、自分の気持ちをどこまで理解しているのか?」
という、
意外に深いテーマが浮かび上がる。
だから『友だちの恋人』は、
単なる「おしゃれなフランス恋愛映画」ではない。
これは、
恋愛における自己認識のズレを笑う、
非常に知的な喜劇
なのである。
しかも舞台となる
セルジー=ポントワーズの
整然としたニュータウンと、
そこを行き交う男女の
予測不能な感情が対照をなしている。
都市は幾何学的に設計されている。
しかし、
人間の心は設計できない。
その「ズレ」が、
この映画をおかしくし、
同時に愛おしいものにしている。
そして何より面白いのは、
見終わったあとに、
果たして、
最初に好きだった相手は、
本当に好きな相手だったのだろうか?
と、
自分自身の恋愛観まで
考えさせられることだ。
恋愛映画が好きな人だけでなく、
「人間観察の面白い映画が見たい」
「会話劇が好きだ」
「シェイクスピア的な恋愛喜劇が好きだ」
という人にも、
ぜひ見てほしい一本です。
Data
| 1987年 | フランス |
| 監督: | エリック・ロメール |
| 出演: | エマニュエル・ショーレ ソフィー・ルノワール |
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