
『飛行士の妻(La Femme de l'aviateur)』は、
エリック・ロメールが1981年に発表した作品で、
1980年代の
「喜劇と格言劇(Comédies et Proverbes)」シリーズ
の第1作です。
主演は
フィリップ・マルロー、
マリー・リヴィエール、
アンヌ=ロール・ムーリー。
パリの街を舞台に、
恋愛、嫉妬、偶然、誤解が絡み合う
104分ほどの小さな物語です。
しかし、
この映画の本当の主人公は
「恋愛」そのものというより、
恋愛について考えすぎてしまう
人間の心なのではないでしょうか。
あらすじ
たった一つの目撃から始まる
「恋愛探偵物語」
主人公は20歳の学生フランソワ。

法律を学びながら、
夜は郵便の仕分けの仕事をしています。
彼には25歳のアンヌという恋人がいます。

ところがある朝、
フランソワはアンヌのアパートから、
クリスチャンという男が出てくるところを
目撃します。

このクリスチャンは
航空会社のパイロットで、
アンヌのかつての恋人です。

クリスチャンはアンヌに別れを告げ、
妻のもとへ戻るつもりで
彼女を訪ねていたのですが、
その事情をフランソワは十分に知りません。
ここからフランソワの頭の中に、
アンヌはまだクリスチャンを愛しているのではないか?
という疑念が生まれます。
そして、
偶然パリの街でクリスチャンを見つけます。
しかも、
彼は見知らぬ金髪の女性と一緒にいる。
「この女性は誰なのか?」
フランソワは二人の後を追い始めます。
ここから映画は、
まるで恋愛映画と探偵映画を
掛け合わせたような展開になっていきます。
15歳の少女と始める「尾行」
フランソワが尾行している途中、
彼は15歳の女子高生リュシーと出会います。

普通なら、ここで
「怪しい男が若い女性に声をかける」
という危険な展開になりそうですが、
ロメールはそこを軽やかにひっくり返します。
リュシーはフランソワの行動に興味を持ち、
「何をしているの?」
という好奇心から、
彼の“捜査”に参加することになる。
こうして、
20歳の青年+15歳の少女
という、ちょっと奇妙な
探偵コンビが誕生します。
二人はクリスチャンと金髪の女性を追跡し、
パリの街からブット・ショーモン公園へ向かいます。
この公園での長い尾行シーンこそ、
本作の大きな見どころです。
ロメールは大げさな
サスペンス演出をしません。
銃も出てこない。
殴り合いもない。
カーチェイスもない。
ただ二人の男女を追いながら、
「二人は何者なのか?」
「何を話しているのか?」
「なぜ一緒にいるのか?」
と想像する。
つまり、
事件の大部分は現実ではなく、
フランソワの頭の中で発生しているのです。
「飛行士の妻」は誰なのか?
そして
映画のタイトルそのものが、
一種の謎になっています。
クリスチャンには妻がいる。
では、
彼と一緒にいる金髪の女性は、
その「飛行士の妻」なのか?
フランソワとリュシーは
そう考えて、
二人の関係を推理します。
ところが終盤、フランソワは
クリスチャンと妻が一緒に写っている
写真を見る。
そこで分かってくるのは、
尾行していた金髪の女性は妻ではなく、
クリスチャンの姉妹だったらしいということです。
彼女がクリスチャンと一緒にいた理由も、
離婚に関する法律上の問題に関係していたと考えられます。
つまり――
フランソワは、
ほとんど一日をかけて
「自分が勝手に作った事件」
を追いかけていた。
このオチが、
なんともロメールらしい。
そして、
ここからタイトルに付けられた格言、
「On ne saurait penser à rien」
=「人は何も考えずにはいられない」
という言葉が効いてきます。
この映画のテーマと制作意図
最大のテーマは
「人間は現実よりも想像に苦しめられる」
フランソワは、
アンヌが何を考えているのか
分からない。
だから考える。
クリスチャンが
なぜアンヌのところへ来たのか
分からない。
だから考える。
クリスチャンと金髪の女性の関係が
分からない。
だから考える。
そして、
分からない → 想像する → 疑う → さらに想像する
という循環に陥っていきます。
これは恋愛における
嫉妬の心理そのものです。
実際には何も起きていないのに、
頭の中では大事件になっている。
ロメールが面白いのは、
これを「嫉妬深い男」という
単純な人物造形だけで終わらせないところです。
アンヌ自身も、
自分の気持ちを完全には理解できていません。
リュシーも、
恋愛について好奇心いっぱいに語ります。
クリスチャンにも彼なりの事情がある。
つまり、この映画には、
「他人の心は、本人ですら完全には分からない」
という問題があります。
「愛している」と
「愛していると思っている」は同じなのか?
フランソワはアンヌを愛している。
しかし、
彼が本当に愛しているのは
アンヌ本人なのか、それとも、
「アンヌと自分は愛し合っている」
という自分のイメージ
なのか。

ここが非常に重要です。
フランソワはアンヌの行動を見て、
それを解釈します。
しかし、
その解釈が正しい保証はありません。
だからロメールの恋愛映画では、
登場人物がよくしゃべります。
「あなたはこう思っているんでしょう?」
「いや、私はそういう意味では……」
「でも、さっきこう言ったじゃないか」
――という具合に、
言葉によって相手の心を確定しようとする。
ところが、
いくら話しても完全には分からない。
言葉が増えるほど、
かえって相手が分からなくなる。
この
「恋愛におけるコミュニケーションの不確かさ」も、
本作の重要なテーマです。
ロメールが描く「若者の恋愛」
興味深いのは、
登場人物たちがそれぞれ異なる年齢と
恋愛観を持っていることです。
15歳のリュシーは、
恋愛をまだゲームのように楽しんでいる。
20歳のフランソワは、
恋愛を真剣に考えすぎる。
25歳のアンヌは、
恋愛の理想と現実の間で揺れている。
そして30歳前後のクリスチャンは、
激しい恋愛よりも
安定した生活へ戻ろうとしている。
つまり、この映画には、
「恋愛とは何か?」
についての四つの世代・段階の
考え方が並んでいるとも読めます。

ロメール自身も後年、
この作品について
若者を描けるのは、
自分が若かったころを覚えているから
という趣旨の発言をしています。
また、
現代のカップルを描いたように見えて、
実はこの物語自体は
1945年に書かれていたとも語っています。
これは非常に面白いところです。
1980年のパリを撮りながら、
ロメールが見ているのは
「1980年代の若者」だけではない。
恋愛をめぐって
悩み、嫉妬し、想像し、勘違いする
人間そのものなのです。
なぜ「喜劇と格言劇」なのか?
ここが『飛行士の妻』を理解するうえで
一番面白いところです。
ロメールは、
それまでの代表的シリーズ
「六つの道徳物語(Contes moraux)」に続いて、
1981年から
「喜劇と格言劇(Comédies et Proverbes)」
をスタートさせました。
『飛行士の妻』はその第1作です。
では、
どこが「喜劇」なのか?
そして、
何が「格言」なのか?
①「喜劇」
人間が自分で作った物語に振り回されること
まず、
典型的な喜劇になっているのが
フランソワです。
彼は探偵のように
クリスチャンを尾行します。
ところが――
探していた謎そのものが、
ほとんど彼の勘違いだった。

この構造が笑いを生みます。
本人はいたって真剣です。
しかし観客から見ると、
「いやいや、そこまで考えなくても……」
となる。
ここがロメールの喜劇です。
大声で笑わせるコメディではありません。
人間の真面目さそのものが、
滑稽に見えてくる。
これがロメール流の喜劇です。
②「探偵映画」のパロディになっている
さらに面白いのが、フランソワの行動です。
彼は恋人をめぐる不安から、勝手に探偵になります。
尾行する。
人物を観察する。
証拠を探す。
写真を撮ろうとする。
しかし、全部うまくいかない。

しかも彼は探偵としてかなり頼りない。
そのため、この映画は恋愛映画であると同時に、
「恋する素人探偵の失敗物語」
にもなっています。
ブット・ショーモン公園での尾行は、
アントニオーニの『欲望』を連想させるような
「見えているものの奥に何か秘密があるのではないか」
という映画的趣向も感じさせます。
実際、批評では
両作品の公園シーンの類似性も指摘されています。
しかしロメールの場合、
そこにあるのは殺人事件ではありません。
恋愛の勘違いです。
だからこそ可笑しい。
③「格言」
「On ne saurait penser à rien」
本作の格言は、
「On ne saurait penser à rien」
です。
日本語にすると、
「人は何も考えずにはいられない」
くらいの意味になります。
ただし、
これは普通のことわざではありません。
ロメールが
アルフレッド・ド・ミュッセの戯曲タイトル
『On ne saurait penser à tout』
「人はすべてを考えることはできない」
を反転させたものです。
つまり、
「人間はすべてを考えることはできない」
に対して、
「いや、人間は何も考えないこともできない」
とひっくり返したわけです。
この反転が映画そのものになっています。
フランソワは
「何も考えられない」のではなく、
「考えすぎてしまう」
フランソワは、
一つの出来事をそのまま受け取れません。
「クリスチャンがアンヌの家から出てきた」
という事実だけなら、それだけです。
しかし彼の頭の中では、
まだ二人は愛し合っているのでは?
↓
クリスチャンは妻と別れるのでは?
↓
アンヌは自分を捨てるのでは?
↓
あの女性はクリスチャンの妻なのでは?
↓
二人は弁護士のところへ行くのでは?
……と、次々に物語が生まれていく。
つまり、
現実よりも
「現実について考えること」
のほうが巨大になってしまう。
これこそ、
「On ne saurait penser à rien」
なのです。
そして最後に、
ロメールはもう一度同じことを繰り返す
映画の終盤、
フランソワはリュシーに
手紙を書こうとします。
ところが、
今度はリュシーの側にも
恋愛らしき気配が見えてくる。
するとフランソワは
また別の人物を追うような
動きを見せる。
ここで映画は冒頭と呼応します。
アンヌをめぐって
男を追っていたフランソワが、
今度はリュシーをめぐって
別の男を意識する。
つまり彼は、
同じ心理から抜け出していない。
恋愛の対象が変わっても、
「相手は自分をどう思っているのか?」
と考え続けてしまう。
映画が円環状に閉じていくような
構造になっているわけです。
「格言」は人生の答えではない
ここがロメールの巧いところです。
『飛行士の妻』を、
「嫉妬するのはよくない」
「考えすぎるな」
という単純な教訓映画として見ると、
少し違います。
ロメールは「正しい生き方」を
教えているわけではありません。
むしろ、
人間はどうしても考えてしまう。
どうしても疑ってしまう。
どうしても他人の心を知りたくなる。
その「どうしようもなさ」
を笑いながら描いている。
だから格言は、
登場人物を裁くための判決ではなく、
映画全体を少し離れたところから
眺めるための鏡なのです。
「喜劇」と「格言」が一つになる瞬間
『飛行士の妻』の面白さを一言でまとめるなら、
人間は、
自分で作った物語を
現実だと思い込んでしまう
ということです。
フランソワは現実を見ています。
しかし、その現実に意味を与えようとする。
そして意味を与えすぎる。
その結果、現実よりも大きな妄想の物語を作ってしまう。
観客はその姿を見て、
「そんなに考えなくてもいいのに」
と笑う。
しかし、次の瞬間には、
「……でも、自分も恋愛をすると同じことをするかもしれない」
と思わされる。
ここにロメールの喜劇の怖さと優しさがあります。
映画を見たくなるポイント
「何も起こらない」のに、
なぜこんなに面白いのか?
『飛行士の妻』には、
ハリウッド映画のような
大事件はありません。
けれど、
「あの人は何を考えているのか?」
という、
人間にとって永遠に解けない
謎があります。
ロメールはそれを、
パリの街を歩きながら、
会話しながら、
尾行しながら、
偶然の出会いを重ねながら
描いていく。
しかも
16mmで撮影されたパリの街は、
作り込まれた映画セットではなく、
日常そのもののように見えます。

だから映画を観ていると、
これは映画なのか、
それともパリのどこかで
本当に起きている一日なのか?
という不思議な感覚になってくる。
そして、
そんな「普通の一日」の中に、
恋愛の嫉妬、
片思い、偶然、
勘違い、すれ違い、
青春の軽さと不安が
全部詰まっている。
まとめ――『飛行士の妻』とは何か?
『飛行士の妻』は、
一見すると、
恋人の浮気を疑った青年が、
男と女を尾行する恋愛コメディ
です。
しかし、その奥には、
- 人は他人の心を完全には理解できない
- 分からないことがあると、人間は勝手に想像する
- 嫉妬は現実よりも想像によって大きくなる
- 恋愛では「事実」より「事実をどう解釈するか」が重要になる
- 人間は何も考えずに生きることができない
というテーマがあります。
そしてタイトルの格言、
「人は何も考えずにはいられない」
は、フランソワという
青年をそのまま表しているだけでなく、
映画を観ている私たち自身にも向けられた
言葉なのです。
何が本当なのか。
あの人は何を考えているのか。
自分は愛されているのか。
あの二人はどういう関係なのか。
――映画を観ている私たちも、
フランソワと同じように考え始めてしまう。
だから、この作品は
「何も起こらない映画」ではありません。
むしろ、
何も起こっていないところから、
人間の頭の中だけで
無限の物語が生まれてしまう映画。
それが『飛行士の妻』なのです。
ロメールが
「喜劇と格言劇」というシリーズを
始めるにあたって、
この作品を第1作に選んだのは
実に象徴的です。
笑っているうちに、
自分自身の恋愛の癖まで
見透かされてしまう。
そんな、
静かだけれど恐ろしく
人間的な恋愛映画です。
Data
| 1980年 | フランス |
| 監督 | エリック・ロメール |
| 出演 | フィリップ・マルロー マリー・リヴィエール アンヌ・ロール・ムーリー マチュー・カリエール |
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