
子游(前五〇六〜?)、姓は言、名は偃。
呉国の人。

孔子の弟子(七十子)の中では
唯一南方の出身。
孔門十哲の一人で
古代の文献に詳しく、
礼儀に通じ、
聖門の四科には文学の一人
孔子の晩年に弟子入りをした。
孔子より四十五歳わかい
魯の武城の町の長官を務め、
孔子の政治主張を実践し、
礼楽をもって人びとを教化し治めた。
子游爲武城宰、
子曰、女得人焉耳乎、
曰、有澹臺滅明者、行不由徑、
非公事、未嘗至於偃之室也、雍也6-14
子游が武城の宰(とりしまり)となった。
先生が

孔子
お前、
人物は得られた
だろうか。
人物は得られた
だろうか。
といわれると、
子游答えた、

子游
澹台滅明という者が
おります
おります

子游
歩くには
近みちをとおらず
近みちをとおらず

子游
公務でないかぎりは
決して私の部屋には
やってきません。
決して私の部屋には
やってきません。
スポンサーリンク
子之武城、聞弦歌之聲、 夫子莞爾而笑曰、割雞焉用牛刀、 子游對曰、昔者偃也、聞諸夫子、 曰、君子學道則愛人、小人學道則易使也、 子曰、二三子、偃之言是也、前言戲之耳、陽貨17-4
孔子が武城の町に行かれたとき、 儀礼と雅楽を講習する 琴の音と歌声とを聞かれた。
孔子
儀礼と雅楽は
国家を治めるための
方法なのだ
孔子
こんな小さい町では おおげさ過ぎるな。。 ムフフ(*˘︶˘*)♫
孔子はにっこり笑うと

子游に問いた
鶏をさくのに 牛切り庖丁が どうして 要るのかな?
武城のような 小さな町を 治めるのに、 国家を治めるのに使う 礼楽を用いる 必要はないのでは?
孔子
といわれた。
子游はお答えした、
子游
💢以前、このわたくしは、
先生からお聞きしました!
子游
君子(為政者)が! 礼楽(儀礼と雅楽)を 学ぶと 人を愛するようになり!
子游
小人(被治者)が
礼楽を学ぶと
使いやすくなる
ということです。
子游
どんな人でも
道を学ぶべきでは
ありませんか!💢
孔子
・・・・

孔子曰く!
諸君!
子游のことばが正しい。
さっき私が言ったのは
子游をからかっただけだ・・・
孔子
子游曰、 喪致乎哀而止、子張19-14
子游がいった、
子游
喪には悲しみを つくすばかりだ。
スポンサーリンク
『論語』では、
子游は、か・な・り
口うるさかったらしい。。
子游曰、
子夏之門人小子、
當洒掃應對進退則可矣、
抑末也、本之則無、如之何、子夏聞之曰、
噫、言游過矣、
君子之道、
孰先傳焉、孰後倦焉、
譬諸草木區以別矣、君子之道、
焉可誣也、有始有卒者、
其惟聖人乎、子張19-12
子游がいった、

子游
子夏の弟子の
若ものたちは
若ものたちは

子游
掃除や客の受け答えや
作法については結構だが
作法については結構だが

子游
つまりは些細なことだ。
根本はといえば何もない。
根本はといえば何もない。

子游
どんなものだろう。
子夏はそれを聞くといった、

子夏
ああっ~💢!

子夏
子游は💢
まちがっている!
まちがっている!

子夏
君子の道は
どれを先き立てて
伝えるとか、
どれを先き立てて
伝えるとか、

子夏
どれを
後まわしにして
怠るとか
いうものではない!
後まわしにして
怠るとか
いうものではない!

子夏
弟子の
能力に従って
順序よく
教えるまでだ!
能力に従って
順序よく
教えるまでだ!

子夏
ちょうど
草木も種類によって
育てかたが
違うようなものである。
草木も種類によって
育てかたが
違うようなものである。

君子の道は
力の無いものに
むり強いしたりして
ごまかせるものだろうか。
始めもあれば
終わりもある
何もかも
備わるというのは、
まあ・・
聖人だけだろうね。
子夏

子夏
もともと
弟子の若ものに
求めることじゃない💢
弟子の若ものに
求めることじゃない💢
スポンサーリンク
子游曰、
吾友張也、爲難能也、
然而未仁、子張19-15
子游がいった、

子游
わたしの
友だちの子張は、


子游
なかなか
できにくいことを
やりとげる。
できにくいことを
やりとげる。

子游
けれども
まだ
仁ではない。
まだ
仁ではない。
子游曰、
事君數斯辱矣、
朋友數斯疏矣、里仁4-26
子游がいった、

子游
君主にお仕えして
うるさくすると、
うるさくすると、

子游
いやがられて
君主から
はずかしめを
うけることに
なるし~(T_T)
君主から
はずかしめを
うけることに
なるし~(T_T)

子游
友だちにも
うるさくすると
うるさくすると

子游
疎遠に
されるものだ
(´;ω;`) 凹
されるものだ
(´;ω;`) 凹
子游は、
孔子の死後
祖国・江南に帰郷して
儒学を広め
「南方夫子(南方の孔子《先生》)」

と呼ばれた。
スポンサーリンク









