灰とダイヤモンド_アンジェイ・ワイダの名作

「世代」「地下水道」に続く
アンジェイ・ワイダ
『抵抗三部作』の最終作が
この映画
「灰とダイヤモンド」です。

ポーランドを代表する映画
どころか
世界の名作映画に入る
超名作です。

私も子供のころから
知っていた映画です。

しかし、
なかなか見る気が
おきませんでした。

でも、
「世代」「地下水道」
と見たからには
この映画を見なければ
『抵抗三部作』
制覇したことになりません。

だから
やっと見ました!

この映画も
第二次世界大戦時の
ポーランドです。

いよいよ
ドイツ軍が降伏
ポーランドの解放が目前です。

ここで問題なのが
ポーランド内の政権争いです。

ロンドン亡命した政権側
ソ連に後押しされている共産党
対立灰とダイヤモンド_アンジェイ・ワイダの名作しているんです。

主人公のマチェク
“ワルシャワ蜂起ほうきの生き残り
つまり
ロンドン亡命政権!
だから
ポーランド・レジスタンス
見捨てたソ連
深く憎んでいます。

この
“ワルシャワ蜂起ほうき
については
「地下水道」の記事に
書いてありますので
灰とダイヤモンド_アンジェイ・ワイダの名作こちらをご覧ください。

 

 

一方、
ポーランド
立て直すために
ソ連から帰国した
シュチュカ共産党 地区委員会書記

マチェク
アンジェイとともに
シュチュカ暗殺を
灰とダイヤモンド_アンジェイ・ワイダの名作試みましたが
失敗してしまいます。

という内容展開です。

この映画
はじめは違う人が
監督をやることに
なっていたそうです。

小説「灰とダイヤモンド」の
映画化に取り組んだのは
私が最初ではなかった。
私よりも前に、
まずアントニ・ボフジェヴィチ
[ポーランドの映画監督]
が試みようとしたが、
政府当局の許可が下りなかった。
次にヴァンダ・ヤクボフスカ
[ポーランドの映画監督]
が挑戦した。
ヤクボフスカが断念した理由は
不明である。
次のヤン・リプコフスキ
[ポーランドの映画監督]
から私は製作権を引き継いだ。
リプコフスキが断念したのは、
スクリーンに何千もの
エキストラがひしめく
壮大な映画になると考えたためだ。
私にとってそもそものきっかけは、
アンジェイェフスキ宛の次の手紙だった。

『アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と』より

 

アンジェイェフスキとは
小説「灰とダイヤモンド」
原作者です。

驚いたことに
原作では、
なんと
共産党シュチュカの方が
主人公だったんですね。

この時代は
ポーランド
マルクス・レーニン主義
共産主義体制下
だったので
主人公が
共産党の人物に
したほうが
都合がよかった
のかもしれませんね。

それを
アンジェイ・ワイダ
映画化するために
原作者である
イェジ・アンジェイェフスキ
の手をかりて
主人公をマチェクに変えました。

観客が
マチェク・ヘウミツキだけに
共感を抱くような映画にしよう
とはまったく考えなかった。
マチェクの敵対者シュチュカ
心を持たぬ木石ではなく、
人間であることに留意した。
そのため、
シュチュカがスペイン国内戦争に
参戦した過去を持っていることを
映画化の段階で付け加えたのだ。
映画は衝撃的な作品となった。
好青年が共産主義運動活動家を
暗殺するというような物語を
スクリーンに映し出すことは、
許されなかったからだ。
当時、
アンジェイェフスキ
少しでも反対するか躊躇したら、
「灰とダイヤモンド」
映画にはならなかった。

『アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と』より

 

この
主人公をマチェク
替えたのは良かったー。

さらに
このマチェクを演じた
ズビグニエフ・ツィブルスキ
が強烈なインパクトを
放ちましたね。

一緒に仕事をした人、
あるいはスクリーンでしか
知らない人も含め、
多くの人々から見て、
ツィブルスキ
俳優の技術を持たない、
役作りのできない
素人役者にすぎなかった。

だが、
ツィブルスキには
別の側面もあった。
何よりもまず、
戦後ポーランド映画
最初の個性的な俳優だった。
二度と出ないような才能だ。
ジェームス・ディーン、
マーロン・ブランド、
ジェラール・フィリップ、
マルチェロ・マストロヤンニ
といった世界的な大俳優と
肩を並べられるのは
彼だけなのだ。
映画の中の彼の演技は、
役柄と、人間に内在する
生物的な要素と
彼自身の個性とを
融合させて
できあがったもので、
同時代のポーランドの
他の俳優には
真似ができなかった。
そこには、
動物の行動を
思い起こさせるものがある。~

『アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と』より

動物の行動を
思い起こさせるものとは?

それは、たぶん
”人の魅力”なんでしょうね

台詞なんかなくても
その人の行動、仕草
ましてや
その人がただ、
そこに立っているだけでも
魅入られる。

それは、
無意識の本能から
その人を見てしまう。
存在感がある。

ほかの人が
どんなに演技をしても
セリフを言っても
その人には
勝てないんだよねー。

目を覆うことも、
意味深遠で象徴的な
行為の一つである。
観客に感情を最も雄弁に
伝えるはずの
目が覆われていることで、
全身の表現力の幅が広がり、
身体の動きがもたらす
印象が格段に増す。
無声映画では、
カメラは全身を映すために
いつもいくぶん遠映しにするので、
俳優の全身による
表現力は非常に豊かだった。
台詞がないから、
クローズアップにしても
意味がないのだ。
トーキーが出てきて初めて、
カメラは俳優の顔に
接近するようになった。
ツィブルスキの場合、
カメラは遠ざかるしかなかった。
サングラスで目を覆われた顔は、
スクリーン上で、
目に相当するものを
持っていなければならなかったが、
その代わりになったのが、
卓越した表現力で
感情を表す身体だった。

『アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と』より

 

彼が演じた人物は
よくよく注意して見る必要がある。
観客に何かを伝達しているのだ。
重要なのは台詞や声の大きさではなく、
彼が演じようとする状況である。

『アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と』より

 

海外の観客にとって、
台詞だけに頼る俳優よりも
わかりやすかった。
ツィブルスキの演技の対象は
台詞ではなく、
ある現実に巻き込まれた人間だった。
海外で認められた
最初のポーランド人俳優となったのは、
そうしたことが理由になっている。

『アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と』より

 

俳優としての必要条件?
ツィブルスキの出現とともに、
映画界ではそうしたものは
重要視しなくなった。

『アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と』より

ア‌ン‌ジェ‌イ・‌ワ‌イ‌ダ
大絶賛!

 

ただでさえ
魅力的で
存在感のある
人物なのに
そこに
人に伝える
演技が加わると
それは
本物になる。

演技とは
それを演じるのではない
演じるのは
あくまでも、
演じたものの
自己満になるので
見ている側にとっては
”クサく”見える。

だから
演技とは
相手に伝える
表現でないと
いけない
身体で伝える
コミュニケーションなのだ
相手の心に
伝わらなかったら
相手の心に残る
はずがないからだ。

ツィブルスキ
それを、見ている私に
伝えてきた!
より強力に教えてくれた!

特に
印象に残ったシーンは
2つある。

1つ目は
シュチュカ
暗殺するシーンだ

ウェイトレスの
クリスティーナと恋に落ちた
マチェク
シュチュカ暗殺を最後に
足を洗って、
彼女と共に生きようとした。
しかし、
シュチュカ暗殺を機に
暗殺者で生きる
宿命を知ることになる。

この時の
ツィブルスキの表情が
全てを現してる。灰とダイヤモンド_アンジェイ・ワイダの名作
夜でサングラス😎を
しているのに。。

そして、
その背景では
ポーランド
ナチス・ドイツから
解放された
祝賀の花火が、
この虚しさ、、、
ホント、
見事で素晴らしい。灰とダイヤモンド_アンジェイ・ワイダの名作

ツィブルスキ
想像力を働かせることが
いちばん大事だと考え、
役作りの検討に
何週間も時間をかけることがあった。
そういう時は、
準備ができるまで
撮影を延ばしてほしいと
頼み込むのだった。
準備とはすなわち、
スクリーン上に映し出される
人物像を完全に
イメージできるようになった状態だ。
想像力が生み出した人物が、
マイケル・チェーホフの言ったように、
みずからの生命で生き始める
といった状態に到達しない限り、
彼は演技に入ることができなかった。
シュチュカの死の場面の手前で
撮影を何日も延期したが、
やがてついに、「準備ができた」と言い、
どう演じたいかを話すのだった。
暗殺者[マチュク・ヘウミツキ
撃たれて死にかかっている
男[シュチュカが抱き合うという
奇妙で不自然な場面は、
最初その案を聞いた時はびっくりしたが、
結果として
この映画に大きなインパクトを
加えることになった。

『アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と』より

 

小説では、ヘウミツキ
シュチュカを暗殺するのは
シュチュカの自宅内ですが、
映画では路上で背後から忍び寄り、
前に回り込んで、正面から発砲します。

(中略)

相手の視線を感じることなく
撃つほうが心理的な負担が
少ないでしょう。
それは、おそらく、
相手にとっても同じです。
銃殺刑に処される時、
日隠しをわざと取りはずす者が
いるということです。

(中略)

背後から傷を負うのは
兵士にとって名誉なことではありません。
背後から斬りかかるのは、
相手にも本人にも
名誉なことではありません。

フルシャワ文学博物館館長の
アダム・マウエルスベルグルからの手紙

そして
もう1つ印象に残ったのは
やはり、
クライマックスから
ラストまでの
有名なシーン。

《灰とダイャモンド》の主人公は、
息絶えだえになりながら、
あたり一面に干し巡らした
洗濯物のシーツの間を進み、
倒れながら、
シーツの一つを胸に抱き寄せる。
白い布に鮮血の染みができる。
赤と白、
すなわちポーランドの国旗だ。
私の見るところ、
この場面は強烈な印象を与えるが、
映画というより文学作品的だ。
もちろん、
あらゆる芸術は作り物である。
芸術は真実を象徴的にのみ
表現することができる。

アンドレイ・タルコフスキー

 

モノクロ映画では、
白いシーツ上の血は
黒にしか見えない。
そこにポーランドの国旗を
認めるには大変な想像力が必要だ。
ポーランド国内では
そうした解釈を聞いたことがなかった。
だが、
私にとってもっと重要なのは、
血にまみれた手の匂いを嗅ぐという
ツィブルスキの不思議な行動だ。
この動作は、
象徴の世界から、生物学の支配する
現実世界に私たちを連れ出す。
そこでは、
思いもよらぬ反射的行動が見られるものだ。

『アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と』より

この
撃たれて
血にまみれた手の匂いを嗅ぎ
力が抜ける。

一瞬、この行動には
私も灰とダイヤモンド_アンジェイ・ワイダの名作ビックリしましたね。

やっちまった」って感じが
伝わってくる。
そのあと
逃げて、逃げて
悲しくて、悔しくて
ゴミ捨て場で
息絶えてく、その姿も
ツィブルスキしか出来ない
見事な演技でした。

70年代、日本の
刑事&探偵ドラマの
お手本が
ここにあったんですね。

無我夢中に演じれば、
尋常さを突破してしまうが、
映画にとって重要なのは
このむちゃさ加減だけだと
言ってもいい。

ツィフルスキのおかげで、
非常に重要な発見もあった。
監督はすべてのことに
口出しをしていいわけではない、
ということだ。

他の映画とは違った、
独創的なものを作りたいなら、
一緒に仕事をしている人間、
特に俳優には、
役作りの自由を確信させ、
[そのために監督は]
独創性を発揮できる
環境を整えるこ とが必要だ。

『アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と』より

 

あらすじ

一九四五年五月八日、
ポーランドのワルシャワ。

町のはずれの教会のそばに、
二人の男が待ち伏せていた。
党地区委員長シュツーカを殺すためだ。
見張りが車の接近を叫んだ。
銃撃。車の男達は惨殺された。
シュツーカの車は遅れて着いた。
《こんな殺人がいつまで続くのか》
通りがかりの労働者達は彼に詰問した。
夕方、街の放送塔がドイツの降伏を告げた。
殺人者達は落ち合う。
見張りの男は町長秘書だった。
町長主催の戦勝祝賀会がホテルである。
二人の男、
アンドルゼイと若いマチェックは
そのホテルへ行く。
彼等はロンドン派の抵抗組織へ入り、
独軍と戦った。
解放後は町長やワーガ少佐の指令で
反党地下運動に従う。
シュツーカが部下とホテルに現れ、

映画.com 》より

 

Data

1958年 ポーランド
監督 アンジェイ・ワイダ
原作 イェジ・アンジェイェフスキ
脚本 アンジェイ・ワイダ
イェジ・アンジェイェフスキ
出演 ズビグニエフ・ツィブルスキ
エヴァ・クジジェフスカ

 

 

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