アポロンの地獄&パゾリーニの物語(後編)

前編では、
この映画が
「オイデップス王」の物語で
そこに、パゾリーニ監督は
“エディプス・コンプレックス”
取り入れて映画化した。
という話でした。

でも、
映画の後半を見ていると
どうも違う、
話は終わっているのに
物語は続いていて
1960年代観光地工場地帯
生まれた場所野原と展開していく、、、

その意味が
さっぱり解らない!
でしたね。

 

 

中編では
「オイデップス王」の物語は
“エディプス・コンプレックス”
以外に
いくつかのテーマがあって
"逃れられない宿命"
”知るということの意味”
とくに
自分は何者なのか?
何のために自分は生まれたのか?
というテーマが
実は
1960年代観光地工場地帯
生まれた場所野原へと展開していく
パゾリーニ自分探しの旅
になっていた。

その旅で
古い貴族の末裔まつえいであった
パゾリーニ
今やプチブルジョワ
中産階級にいることを
思い知らされ。

そのプチブルジョワから
脱却するために
共産主義を目指したが
ダメになり
目の前では
格差が広がり
発展してく資本主義がある。

"逃れられない宿命"
まともに受けた
パゾリーニオイデップス
絶望しながら
生まれた場所へ向かいます。
そこまででしたね。

 

そして今回は
その彼が生まれた故郷の
ボローニャへ向かうとこから
はじまります。

それでは、
今回も参考資料として
花野秀男訳の
『パゾリーニによるオイディプース王』
を見ながら検証してみましょう。

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生まれ故郷へ

48  サチーレの郊外

オイディプースと彼を導く少年は、
いまは故郷の白い質素な街道にやって来る。
真昼時を、黙って歩いてゆく。

するとこうして、たちまち、
昔のぬぐい去りがたいが甦ってくる。

一筋の街道と一軒の家……

野辺は家並の
裏手すぐにまで迫っている……

しかしプチブルたちの、
慎ましい家並だ……
蔓棚に、雨樋、玄関には小さな軒縁。
この後背地を何世紀にもわたって
支配した海の都市の貴族の痕跡だ。

~(中略)~

オイディプースは少し立ち止まり、
やがて、
その渇望の激しさによって
またも押しやられるかのように、
下のほうへ、
牧場づたいに導かれてゆく……
ずうっと奥の
リヴェーンツァ川の
青々とした水面まで……

そしてここで立ち止まる。
おのれの闇のなかで、
彼が探し求めてきたものは、
何もかもここにあったのだろうか?

鄙びた、野性の、
銀色の柳の濃い茂みが、
ゆっくりと流れゆく水面に
その枝々をわせている
あの至高の一角だ。

オイディプース
初めて母親を見分けて
それとあったあの場所だ。

軽やかな、古い時代の、
言うに言われぬ
風によって生気を与えられた、
こうしたの上に、
いきなり音楽が爆発する。
そのモチーフからは
たちまち動顛させる
意味が引き出される──
反復、回帰が──
時の虚しく移ろうなか
で原型となる不動性が──
幼年時代の神秘的な音楽が──
預言的な愛の歌が──
それは宿命の前であり後である──
あらゆる物事の源である歌が響きわたる。

『パゾリーニによるオイディプース王』花野秀男訳

んっ!

このシーンの場所は
パゾリーニの生まれ故郷
ボローニャ
じゃなくて
サチーレとなっている。

そうなると話は別だ!

しかも、パゾリーニ
絶望に打ちひしがれて歩いてる。
その背景で流れている曲は
モーツァルト弦楽四重奏曲第19番ハ長調「不協和音」
これは
映画の前半でも流れていた。

だったら
映画の前半も見直さないとダメだ。

と言うことで
前半を見直してみましょう。

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パゾリーニ、母の思い出

1  サチーレの街道

(冒頭、省略)~

野辺は家並の裏手すぐにまで迫っている。
しかしプチブルたちの、慎ましい家並だ。

~(中略)~

みな、この後背地を
何世紀にもわたって支配した
海の都市の貴族の痕跡だ。
そう、
太陽のほかには何もないだろう。
たぶん、小学校の子供がふたり、
兵隊がひとり、通るかもしれない。
けれども
軍服は一九三〇年代の歩兵のものだろう。

『パゾリーニによるオイディプース王』花野秀男訳

 

2  サチーレの家

家の中ではひとりの女が
ついいましがた
子を生んだところだ。

女は、見えない。

見えるのは、
産婆の両手に抱えられた、
生まれたばかりの赤ん坊だけだ。

『パゾリーニによるオイディプース王』花野秀男訳

 

3  リヴェーンツァ川に沿って

牧場に一枚の毛布。
赤ん坊が日向で幸せそうに
手足をばたつかせている。
彼は小さな目を開けている。
お腹はすいてないし、
眠くもなくて、
元気いっぱい、
その時を平和に楽しんでいる。

~(中略)~

赤ん坊のまだ
髪の毛の生え揃わない
楽しそうな頭の上で、
一九三〇年代の
裾飾りのついた明るい色の
ブラウスのスナップを、
片手が外すと、
そこから真っ白な乳房が出てくる。
赤ん坊は幸せそうに乳を吸い始める。

~(中略)~

長いあいだ
幸せに乳を吸いおえてから、
赤ん坊は光り輝く
小さな眸を上げて、
彼は初めて、
そしてぼくらも、
彼と一緒に初めて見る。

母親の顔を。

赤ちゃんのうえに
屈みこんだ母親の顔。
女王みたいに美しい女、
目は斜めに長くて、
韃靼人みたいで、
残酷な甘美さに溢れている。

赤ん坊は笑う。
そして、
母親と一緒に、
初めて、
おのれのまわりの世界を見る。

陽射しに葉が透けて見える柳並木と川、

『パゾリーニによるオイディプース王』花野秀男訳

 

 

ん~
やっぱり、
冒頭のシーンも
パゾリーニの生まれ故郷
ボローニャ
ではなく
サチーレ
なっていましたね。

それと音楽
モーツァルト弦楽四重奏曲第19番ハ長調「不協和音」
は、映画(本編)では
野原のシーンで
母親が
赤ちゃんのパゾリーニ
乳を飲ませていたところで
流れていましたね。

この時の
母親の表情!

乳を飲ませながら
少し怒りの表情になる。
そして流れる「不協和音」!

ん~、かおなるほど!

これが
生まれ故郷のボローニャ
ではなく
サチーレになった
理由だと見ましたね。

実は
パゾリーニ
3歳まで
スザンナの記憶は
わずかでしかなかった
といっています。
つまり
3歳までは父親である
カルロ
愛情深く育てていたマーク
みたいなんです。

まあ、
考えてみると
カルロスザンナ
一方的実らせた子ですからね、、

でも
この3歳までが
重要な時期
親子の絆を深める
貴重な3年間なのです。

なぜかというと
子供が言葉を覚えて
自分の気持ちを伝えることが
出来るのが
3歳ごろなので
それまでは、
必死に親を見て生きています。

愛を知るのも
この時期です。

『論語』で
孔子が言う、
3年間の愛は
このことを言っています。

この時期を
おろそかにすると
子供は
知らないまま育ちます。
社会的に適応しにくい
障害を持つようになるのです。
これは
科学的に証明されています。

また、
伝統社会先住民
母親が授乳によって、
次の子供を産むのが
3~4年後に調整している
のもそうなのです。

だから
このシーンは
単純に
生まれ故郷で
母親に育てられた
という内容で
解釈することは
できません。

では
何なのか?
なぜ、サチーレなのか?

パゾリーニの過去を
振り返って見ると

10歳から13歳までは
都会のクレモナに住んでいて
そこから朝早く
サチーレにある学校に
独りで汽車通学をしていました。

パゾリーニにとって
この頃が、
最も「幸福な時代」
美しく理想に満ちた日々だった
といっています。

そして、
15~16歳頃になると、
もう理想に満ちた幸福な時の
喪失そうしつなげきだしていたそうです。

 

つまり
ここサチーレ
パゾリーニにとって
理想に満ちた幸福な場所
だったのです。

その理想を描く知恵!
つまり
文学の素晴らしさに
導いたのが
であり、
小学校の教師をしていた
スザンナ

赤ん坊は笑う。
そして、
母親と一緒に、
初めて、
おのれのまわりの世界を見る。

 

やっとたどり着いた
理想に満ちた幸福な場所

時の虚しく移ろうなか
で原型となる不動性が──
幼年時代の神秘的な音楽が──
預言的な愛の歌が──
それは宿命の前であり後である──
あらゆる物事の源である歌が響きわたる。

パゾリーニ自分探しの旅
ここで終わるのです。

もはや見えぬ光よ、
 かつて、私のものだった光よ。
 もう一度、私を照らしてくれ。
 やっとたどり着いた。
 人生は始まった所で終わるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

おお~うっと!

もう1つアポロンの地獄&パゾリーニの物語(後編)
気になることが
ありました。

それは
3歳までは
父親である
カルロ
愛情深く育てていたマーク
と言うことです。

“エディプス・コンプレックス”
を描いていた
この映画。

でも
本当にパゾリーニ
父親を
嫌っていたのでしょうか!

それについては
やはり、映画の前半である。

父親が出てくるシーンを
見てみましょう。

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パゾリーニ、本当の愛

5 兵営 

母親は乳母車を押して
兵営の中庭に入る。

~(中略)~

父親と一緒に
〈中隊本部〉から母親が出てくる。
父親は若い将校で盛装している。
胸には斜めに群青色の飾り帯、
銀色の垂れ飾りのついた肩章、
陸軍中尉の階級章のついた
丈高の軍帽、
腰にはサーベルを吊るしている。

彼がやって来て、
乳母車に近づくと、
中を覗き込んで
恐ろしい微笑みを投げかける

赤ん坊は表情のない
輝く小さな目で彼を見つめる。
たぶん早くも
無関心を装っているのかもしれない。

燕飛び交う空をバックに、
そのプチブル戦士の
軍服姿をくっきりと現して、
父親が彼を見つめる。

悲劇の中でのように
高らかに荘重に響く、
おのれの内なる声を父親は聴く。

『パゾリーニによるオイディプース王』花野秀男訳

このシーンも
映画とは
違っていましたね

映画では
その軍服を着た父が
幼い息子(たぶん2才ぐらい)
パゾリーニにらんでいます。
そして、
幼い子供は絶望して泣き出します。

でもシナリオでは
父親は

中を覗き込んで
恐ろしい微笑みを投げかける

そして子供のパゾリーニ

赤ん坊は表情のない
輝く小さな目で彼を見つめる。
たぶん早くも
無関心を装っているのかもしれない。

こんなに違う。

赤ん坊はなぜ
早くも無関心
装っているのでしょうか?

それは、
次の言葉に隠されている
と思います。

そのプチブル戦士軍服姿

そう
パゾリーニこだわる

パゾリーニ

私が強調したいのは
父が貴族出身にもかかわらず
イタリアのプチブルジョワだと
いうことです。

 

つまり

父親が嫌いではなく
父親の存在を認めたくなかった!
じゃないかな
貴族の末裔まつえいだったのが
父親のせいで
プチブル戦士になったことを
憎んでいるのでは。。。

本当は父親を
していた。
誰よりも

次のシーンで
それがにじみ出ている。

6 サチーレの家 

しまいに父親は起き上がると、
まさにそのときには
母親の義務よりもどうしてか
一層気高く真剣な、
その義務でもあるかのように、
行って赤ん坊の様子をみる。

赤ん坊はその揺り籠の中で、
またしても
はだけてしまっている。
しかし、
目は閉じて、眠っている。

父親は彼の上に屈みこんで
長いあいだ彼を見つめている。
やがていきなり両手を伸ばすと、
まるで粉微塵にしたいかのように、
赤ん坊の小さな裸足を拳の中に握りしめる。

『パゾリーニによるオイディプース王』花野秀男訳

にじみ出ているのが
この文章

その義務でもあるかのように、
行って赤ん坊の様子をみる

赤ん坊はその揺り籠の中で、
またしても
はだけてしまっている。
しかし、
目は閉じて、眠っている。

父親は彼の上に屈みこんで
長いあいだ彼を見つめている。

これは
多分、
無意識に書いたのでしょう。
だから、
なおさら強烈に読み取れる。

この映画の5年後
パゾリーニはインタビューで
こう言っています。

アポロンの地獄&パゾリーニの物語(後編)

私のエロティック
情緒的な人生全体は、
この過度の途方もない
母への愛情の結果だと
長いことおもっていました。
しかし
ごく最近では
父との関係も
また
大変重要だと感じています。
父を嫌いだと
いつも思っていましたが、
実際にそうではなかったのです。
パゾリーニとの対話 ジョン・ハリディ

アポロンの地獄&パゾリーニの物語(後編)

父がきらいだと
いつも思っていましたが、
最近父と息子の関係を
扱った私の最新の詩劇
「寓意」を書いて、
私のエロティック
情緒的な人生の大部分が
根本的には
父への憎悪ではなく、
父への愛に依っているのだ
と感じました。
パゾリーニとの対話ジョン・ハリディ

 

パゾリーニ
イタリア共産党にいたとき
未成年への
わいせつ行為により告発され
共産党から除名させられたのも
そして
彼の謎の死も
宿命的なものを感じますね。

ラストに薄~く流れる
イタリア王国の国歌
みたいな曲が
さらに虚しさを増しますねー。

 

 

予告編

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