テニス・コートの誓い_フランス革命Ⅰ

歓喜の絵です。
そして
理想の絵です。

ここでは、
議会政治のもとで
立憲君主政という政体を樹立した
新しいフランスが描かれています。

しかし、
未完に終わっています。

なぜって?

この絵の通りにならなかったからです。

逆に
血で血を洗う
フランス革命になっていまいました。

一体、
「テニス・コートの誓い」とは
何なのでしょうか?

まずは
この時代の背景から見てみましょう。

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「テニス・コートの誓い」に至るまで

時は
18世紀のフランス
ルイ16世

絶対王政時代です。

絶対王政とは
国王が
絶対的な支配権力をもつ
政治体制のことです。

当時、フランス王国は
度重なる戦争と飢餓、
さらに
国王の贅沢ぜいたくな生活などで、
国家財政は赤字でした。

そこで
ルイ16世は、
財政を再建するために
1789年5月
三部会と呼ばれる
会議を開きました。

三部会
三部は
フランス国内に存在する
3つの身分のことを指し
それぞれの
代表者が参加して
会議することを三部会
と呼んでいたのです。

その3つの身分とは
まず
国王を頂点とし、
聖職者である第一身分
貴族である第二身分
ここまでが
特権階級であり、
彼らは数の上では
少なかったにもかかわらず、
国土の大半を領有する
封建領主として農民を支配し、
免税特権を認められていました。

そして
第三身分
ブルジョワ、都市労働者、農民など
特権を持たない人びとのことで、
人口の大部分を占めています。

(図)第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)を担う第三身分 (Wikipedia)より

 

この三部会でルイ16世は
これまで課税を免れてきた
第一身分(聖職者)と
第二身分(貴族)にも
課税を行なおうとしましたが
貴族が猛反発。
さらに
議決方式をめぐって
第一・第二身分と
第三身分が対立しました。

1789年6月
『第三身分とは何か』の著者である

アベ・シェイエスの呼びかけで
自分たちこそ
真の国民の代表であるとして、
第三身分の人々は
国民議会の開催を宣言し、
独自に審議を進めることにしました。

そして、
激論の末、
ついに第一身分議員が
国民議会に合流することを決定、
これに脅威を感じた
王党派ルイ16世を促して、
国民議会は、
ヴェルサイユの三部会の議場から
締め出されました。

議場から閉め出された
国民議会
ヴェルサイユ宮殿の
球戯場きゅうぎじょうを新たな議場とし、

王国の憲法が制定され、
強固な基盤の上に確立されるまでは、
決して解散せず、
四方の状況に応じて
いかなる場所でも会議を開く

ことを誓いました。

議長のバイイ

誓いの文面を朗読すると、
議員たちからフランスと
国民と国王をたたえる
万歳三唱があがったそうです。

新たな議場となった球戯場きゅうぎじょうは、
王族達が
テニスの原型の球戯きゅうぎ(ジュ・ド・ポーム
楽しんだ屋内コートのことで、
この球戯場で
バイイが誓いの文面を朗読したことが
球戯場きゅうぎじょう(ジュ・ド・ポーム)の誓い
と言われ
それが「球技場の誓い」
「テニス・コートの誓い」
よばれるようになったのです

ベルサイユのばら

ここまでの話は、
「ベルサイユのばら」の
第34話「今 “テニスコートの誓い”」でも
見れます。

 

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ルイ・ダヴィッドのビジョン

1790年
新古典主義絵画の巨匠
ルイ・ダヴィッド

この歴史的な
球戯場きゅうぎじょう(ジュ・ド・ポーム)の誓い
公式記録として描くよう
国民議会に依頼されました。

ダヴィッドは、
現場で描いたスケッチをもとに
テニス・コートの誓い
400×660cmという
登場人物をほぼ実物大にするほどの
巨大な絵を製作する気でした。

中央で手を挙げて
宣誓文を読み上げているのが
議長のバイイ
テニス・コートの誓い
その下で座っている人物が
『第三身分とは何か』の著者で
第三身分代表の聖職者
アベ・シェイエス

彼らの前で
3つの身分
握手し抱き合っています。
まるで
お互いの公平さを
現すかのようです。

そして
歓喜の手を差し出す
それぞれの代表たち。
テニス・コートの誓い
ところが
世の中は
予想外の速さで展開しました。

 

 

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何故?未完になったのか

まず、
中央で手を挙げて
宣誓文を読み上げている
テニス・コートの誓い
議長のバイイ
1789年
最初のパリ市長に選ばれましたが、
シャン・ド・マルスの虐殺事件で
デモを鎮圧するために
国民軍に発砲を命じたため
国民の信頼をなくし
1791年に解任され、
1793年末に逮捕され、
反革命分子として
処刑されました。

 

 

胸に手を当てている
ロベスピエール
テニス・コートの誓い
「恐怖政治」を宣言し
1793~94年にかけて、
何千人もの人々を
マリー・アントワネットも含む)
ギロチンによる斬首刑を行いました

 

 

両足を踏ん張って
右手をおろしているのが
テニス・コートの誓い
ジャコバン=クラブの設立者、
オノーレ・ミラボー
彼は1791年に謎の死をとげ
(毒殺の噂があった)
後に王党派に買収されていたことなどの
証拠書類が発見されました。

 

 

そのミラボーの隣が
アントワーヌ・バルナーヴ
テニス・コートの誓い
1791年
ルイ16世のヴァレンヌ逃亡の時に
同行の役を引き受けた頃から
王政支持者に転じ、
憲法を王政に適合するよう
努めるようになり
8月10日事件後、
宮廷との通信が発見されて
逮捕され、
革命裁判所によって
処刑されました。

 

このように
絶対王政になびく者や
「恐怖政治」をおこなった者など
当初の立憲君主制を目指した
誓い(理想)は崩れて
この絵の意味がなくなってしまったのです。

そして
この絵を描こうとした
ルイ・ダヴィッド自身も

「恐怖政治」を宣言した
ロベスピエールと手を組み
政界に参加したのです。

 

 

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