地下水道_アンジェイ・ワイダのワルシャワ蜂起

この映画
ドイツ占領下ワルシャワを舞台に、
ポーランドパルチザン部隊
迷路のような地下水道を通って
血路を開こうとする物語です。

驚いたことに
このパルチザン部隊
全滅することを
最初に言っているんです。

スタヴィンスキの脚本を
映画にする際に、
工夫を施した箇所が
二箇所あったのを憶えている。

まず、
下水道に降りるまでの場面を短縮して、
観客の記憶の中に
下水道と暗闇が印象強く残るようにした。
もう一つは、
最初の場面で解説を
ナレーションで流したことだ。
人物を順番に紹介し、
彼らがまもなく落命する運命にあること、
観客が今見ているのは
人物たちの最期であるということを、
観客に知らせたのだった。
『アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と』より

 

そして
この映画には
ポーランド国民が
決して忘れてはならない
大事なテーマがあります。

それは
“ワルシャワ蜂起ほうきです。

“ワルシャワ蜂起ほうきとは
第二次世界大戦後期に
ナチス・ドイツ占領下
ポーランドの首都
ワルシャワで起こった
武装蜂起ぶそうほうきのことです。

具体的に言いますと

ナチス・ドイツ
ポーランドを攻めて占領!
その時、
ポーランド政府
イギリスロンドンに亡命しました。

そして
そのロンドン
イギリス政府、承認のうえで
〔ポーランド・ロンドン亡命政権〕を作ります。

一方、ポーランド首都ワルシャワでは
地下組織が結成され国内軍という軍隊ができました。

国内軍
ポーランド・ロンドン亡命政権指導のもと
活動をしていました。

1944年
ソ連ドイツ軍を破り、
ポーランドに侵入します。

7月末
ソ連軍は西に進み
首都ワルシャワから
10キロ地点まで迫りました。
このとき、
一部のポーランド国内軍
ソ連軍と武装蜂起の打合せを
していたそうです。

そして、
ポーランド国内軍司令官
タデウシュ・コロモフスキ将軍
1944年8月1日17時
蜂起ほうき 決定!

モスクワ放送は
ラジオで呼びかけました。
「ポーランドよ時がきた、武器をとれ」
このソ連側の呼びかけに応じて
ルシャワにいた国内軍
ドイツ軍に対して
一斉に蜂起ほうき !
民間人まで参加し
子供から老人まで一斉に
戦闘を開始しました。

国内軍は一時、ドイツ軍を追いつめて、
蜂起は成功するかに見えました。

ところが、
ソ連軍国内軍が蜂起したあと、
なぜかワルシャワ侵攻停止します。

孤立状態になった国内軍に対して、
圧倒的に優勢なドイツ軍の報復がはじまりました。

ヒットラーソ連の支援のない
ワルシャワを、
徹底的に殲滅せんめつせよと命令。
市内の建物8割り破壊され、
市民を含む15万人以上殺されました。

10月2日
国内軍63日間にわたる
抵抗の末に降伏しました。

しかし、その時
突然
ソ連軍ワルシャワ侵攻をはじめて
ドイツ軍敗退します。

 

 

アンジェイ・ワイダ
この
“ワルシャワ蜂起ほうき
フィルムに残したかった。

でも、
ポーランド政府の検閲けんえつから逃れる、
または、
一般大衆に受け入れられる為に
苦しくて辛い
“ワルシャワ蜂起ほうきの戦いを
地下水道に置き換えて
描くことにしましたネ。

《地下水道》の製作に取りかかる際、
こうした真実を
スクリーンから主張するのは
無理だということを、
私が認識していたかどうかというと、
もちろん、認識していた。
それどころか、
真実を蜂起ほうき兵のドラマの陰に
できる限り深く隠しおくことが
映画製作の条件であることも知っていた……。
『アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と』より

そこが、
この映画の凄いとこです地下水道_アンジェイ・ワイダのワルシャワ蜂起

 

地下水道で苦しむ、または葛藤する
人々の表現は、
“ワルシャワ蜂起ほうきで苦しむ、
または葛藤する人々の代わりの表現なのです。
それを
イタリア・ネオレアリズモの手法を使い
見事に映し出しましたね。

《地下水道》は、ワルシャワ蜂起ほうき
小説でしか知らない若者が出演する映画だ。
しかし、それ以上に重要なのは、
彼らが戦前ポーランド映画の
どうしようもないわざとらしさにも
接した経験がないということだった。
私たちの手本となったのは
イタリア・ネオレアリズモで、
その手法の持つ雰囲気を最も重視した。
『アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と』より

 

また、
“ワルシャワ蜂起ほうきの記憶を
リアルに残すためには
その情景も必要でした。

一九五六年の
ワルシャワで戦争の焼け跡を
見つけるのはすでに難しくなっていた。
最後まで残っていたのは、
《地下水道》の最後の場面で
映し出されるスタルフカ
[ワルシャワの地区スタレ・ミャスト(旧市街)のこと]
のカミェネ・スホトキ通りから
ヴィスワ川寄りの低くなった地域の廃墟で、
それもまもなく解体される予定だった。
『アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と』より

 

この映画は
1957年度カンヌ国際映画祭・審査員特別賞、
1957年度モスクワ世界青年平和友好映画祭青年監督賞
など受賞し
アンジェイ・ワイダ監督の名を
世界で知らしめる傑作になりましたね。

映画がカンヌで成功し、
観客や評論家が、
政治的背景だけでなく、
映画そのものにも興味を示し、
とりわけ審査員賞、
いわゆる銀棕櫚賞を受賞したことで、
ポーランド国内の観客や
評論家の厳しい意見もいくぶん和らいだ。
観客の大部分はワルシャワ蜂起ほうき参加者か、
あるいは蜂起ほうきで肉親を
失った家族だったので、
映画に対して批判的なのも無理はなかった。
映画は彼らを満足させることは
できなかったのだ。
彼らはそれまで傷を舐め合い、
近しい者を悼んできたのだった。
そうした彼らが見たいと思ったのは
倫理的・精神的勝利といったものであり、
下水道での死ではなかった。

しかし、
《地下水道》の成功の要因は
テーマの選択にあった。

~(中略)~

蜂起ほうき参加者は
不当な評価を与えられていたので、
この映画で名誉を回復させる
必要があったのは事実である。
だが、蜂起ほうき参加者の行為の意味を間う
一つの大きな契機となったのは、
廃墟になったワルシャワの姿だった。

真実を暴くシナリオになると
思われたのは、
勝利のバリケードではなく、
下水道を通っての逃走だった。

~(中略)~

ワルシャワ蜂起ほうきがとどめを刺し、
ポーランドはボルシェヴィズムの
餌食えじきになったというのだ。
これはもちろん蜂起ほうき参加者ではなく
「Wの時」

Wの時

『Walka(戦闘)の時』の意味で、
国内軍総司令部が
ワルシャワ蜂起ほうきの開始時刻に
予定していた
1944年8月1日の17時を指す

を宣言して、
ワルシャワの若い知識階級を
全滅させた者が悪いのだ。
『アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と』より

ここで言う
ボルシェヴィズムとは
ウラジーミル・レーニン
率いた左派の一派のこと
を指しますが
まあ、単純に
ソ連軍だと思ってください。

 

さあ、
なぜ、アンジェイ・ワイダ
ポーランドソ連餌食えじきになった
と言ったのでしょう。

それは
ソ連“ワルシャワ蜂起ほうきによって
ポーランド国内軍
殲滅せんめつしたかった
からでしょう。

国内軍
イギリス承認の
ロンドン亡命政権指導で動いています

イギリスチャーチル
ポーランドを民主主義の陣営として
確保したい考えだったので
ロンドン亡命政権を承認したのです。

でも
ソ連はレーニン主義です。
スターリン
ポーランドソ連入口
重要な拠点地下水道_アンジェイ・ワイダのワルシャワ蜂起
だから、
ポーランドの政権
イギリスでなく
ソ連側にしたかった。

そこでソ連
ポーランドに侵入した際に
ポーランド東部のルブリンという町で
(ポーランド国民解放委員会)
ルブリン政権
を結成。

“ワルシャワ蜂起ほうきによって
国内軍ドイツ軍殺させて
弱まったドイツ軍敗退させて
ルブリン政権ともなって
首都ワルシャワに入場
これで実質的な支配
獲得したのです。

だから
アンジェイ・ワイダ
「Wの時」を宣言した
国内軍総司令部が悪いと
言っていますね。

この
国内軍総司令部に対して
アンジェイ・ワイダ
映画のラストで
見事に映し出しましたね。

 

あらすじ

第二次世界大戦末期、
1944年のワルシャワ。

ポーランド国内軍による武装蜂起は、
ドイツ軍による容赦ない攻撃で
追い詰められ、
悲惨な最終段階に達していた。

その中の一つ、
ザドラ中尉の率いる中隊は
事態打開のため、
地下水道を通り、
市の中心部に出て
活動を続けることにする。

夜になって隊員は
地下水道に入っていくが、
やがて離ればなれになり、

Wikipedia 》より

 

Data

1956年 ポーランド
監督 アンジェイ・ワイダ
脚本 イェジ・ステファン・スタヴィンスキー
出演 タデウシュ・ヤンチャル
テレサ・イジェフスカ
ヴィンチスワフ・グリンスキー

 

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