律宗_鑑真の苦難と天平の甍、そして四分律

授戒じゅかい、それは(戒律)
「お釈迦様の教えを守って生活をします。」
と誓い、さずけてもらう名前(戒名)のこと。

聖武天皇しょうむてんのうは、みづから授戒を受け
仏法によって
天変地異や内乱などから
国家および天皇をまもり、
社会を安定させたいと願う
鎮護国家ちんごこっか
心の拠り所としていた。

しかし、
今だに、正式授戒のできる師僧がいなかった。

そこで栄叡(ようえい)、
普照(ふしょう)らが中国に渡り、
高僧として名高い 鑑真がんじん
戒律を日本へ伝えるよう熱心に頼み込んだ

その願いを聞き入れた 鑑真がんじんは、
日本に渡航(とこう)するが・・・

そこには、苦難の連続であった。

彼らが、命がけで伝えた戒律とは、

そして
現在でも在家信者が守る戒律
”五戒”とは


「戒律」の教えを根本におく
律宗

それは、戒律のひとつひとつに
人格を高める意味があり、
正しい行いを通じて
自らを悟りの境地へと導くものであった。

 開祖

中国の高僧
道宣(どうせん)
(596~667)

律宗_鑑真の苦難と天平の甍、そして四分律

呉興長城(現・浙江省長興県)の出身。

15歳で出家
20歳で大禅定寺で「律」を学ぶ。

652年、高宗(こうそう)の勅命によって
西明寺(さいみょうじ)が創建されると、
同寺で『四分律しぶんりつ』の注釈の執筆など、
「律」の研究に没頭した。
このことから後世の人々から
南山律師なんざんりっしと呼ばれるようになった。

 伝来

鑑真(がんじん)

律宗_鑑真の苦難と天平の甍、そして四分律

742年 当時、
日本では正式授戒のできる師僧がいなかった。
そこで栄叡(ようえい)、
普照(ふしょう)らが中国に渡り、
高僧として名高い 鑑真がんじん
戒律を日本へ伝えるよう熱心に頼み込んだ

律宗_鑑真の苦難と天平の甍、そして四分律

その願いを聞き入れた 鑑真がんじんは、
日本に渡航(とこう)するが

暴風などで挫折すること五回

同船した栄叡(ようえい)のほか

弟子の一人を病いで失う

 鑑真がんじん自身も失明するにいたった。

6度目の渡航(とこう)で、
ようやくその目的を達したのが754年

実に12年の苦難であった。
鑑真67歳。

鑑真は東大寺に初めて戒壇を設け、
聖武天皇しょうむてんのう以下400余人に授戒。

聖武天皇

759年
唐招提寺とうしょうだいじが建立されると、
“律”を講じ、
戒を授け、布法に専念した。

さらに医学や薬草類にも優れた専門知識があり
これをわが国に伝えるとともに
建築や彫刻にも力を入れ、
天平文化に大きな影響を与えた。

日本に帰化もした。

 本尊

 毘盧舎那仏びるしゃなぶつ

律宗_鑑真の苦難と天平の甍、そして四分律

毘盧舎那びるしゃな”は、
サンクリット語の
ヴャイローチャナの音号で
太陽を意味する

「光明 遍く照らず仏」

宇宙の本源・真理
そのものであるとし、
すべての衆生をさとりに導く仏である

 教え

仏教関係の書物を集大成したものは
「三蔵(さんぞう)」
と呼ばれ、

経蔵(きょうぞう)
律蔵(りつぞう)
論蔵(ろんぞう)
の3つに大きく分けられている。

“経蔵(きょうぞう)”は、
釈尊の説法を記録したもの

“律蔵(りつぞう)”は、
さとりを開く者になるための戒律を記したもの

“論蔵(ろんぞう)”は、
経蔵・律蔵について
後世の仏教学者が注釈をほどこした論書

この「三蔵(さんぞう)」のうち
“律蔵(りつぞう)” には

  • 『四分律(しぶんりつ)』
  • 『五分律(ごぶんりつ)』
  • 『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』
  • 『十誦律(じゅうじゅりつ)』
  • 根本説一切有部律こんぽんせついっさいうぶりつ

の5種があり、律宗は
四分律蔵(しぶんりつぞう)
を中心として仏教を研究している

具体的には

出家者が守る戒律を
行動しん
表現
精神
のすべてにわたって実践することが
仏陀(ブッダ)への道である。
と説いてます

仏教の戒律には、細かな定めがあり、
僧侶(比丘)になるためには250戒
女性がなる(比丘尼)には348戒
日常生活すべてに戒律が定められている。

一般の家庭生活を営む信者
(在家信者)の場合が守る戒律は“五戒”といわれ

  1. 殺すな
  2. 盗むな
  3. 嘘をつくな
  4. 色欲におぼれるな
  5. 酒を飲むな

と定められている。

 総本山

唐招提寺(とうしょうだいじ) 

天平時代の美しい伽藍(がらん)が有名。
金堂(国宝)、講堂、僧房、宝蔵、
など奈良時代の建築もある。

奈良県奈良市五条町13−46

https://www.toshodaiji.jp/

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