フランス革命を描いた絵画
第3回
今回は、この奇妙な絵からです。
中央に頭から炎が出ている
天使がいます。
向かって左には
不思議な物をもった女性...
女性の頭には☆があります。
向かって右には
骸骨が...
💀は死神でしょうか?
この絵のタイトルは
「自由か死か」です。
選択です。
そうなると
どうやら女性の方が
自由みたいです。
この
自由とは
何なのでしょうか?
まずは
そこからみてみましょう。
自由とは?
普通、自由とは
自分の思うままにふるまえること
(当然、責任も伴います)
となりますが、
これは、
精神的自由のことなんです。
この絵画のタイトルである
自由とは
政治的自由のことを言っています。
政治的自由とは
王や政府の権力、
社会の圧力からの
支配・強制・拘束をうけずに、
自己の権利を執行すること
《ジャパンナレッジ》より引用
なんですね。
前回で紹介した
で、まさに民衆が
自己の権利を執行した日であり
この
1789年7月14日の
「バスティーユ牢獄襲撃」は
フランス革命の始まりであり
「自由元年」とも言われているんです。
「バスティーユ牢獄襲撃」以降
国民議会は、
アメリカの新しい民主政に基づき、
1789年8月26日に
人権宣言
(人間および市民の権利の宣言)
を行いました。
人権宣言の内容は、
自由、人民主権、
所有権、言論の自由
といった、
基本的人権を
王族に認めさせるものでした。
その
人権宣言での 自由とは
以下の文章で定義されています
自由とは、
他者に害をなさぬあらゆることを
行うことができるということである。
よって、各人の自然権の行使には、
それが社会の他の人々が
同じ諸権利を享受することを
保証するもの以外には限界がない。
こうした限界は法によってのみ決定される。
この人権宣言の起草にあたったのは
アメリカ独立戦争に参加した
ラファイエットです。
実は
「自由か死か」という言葉は
アメリカ独立戦争の指導者
パトリック=ヘンリーが
バージニアの下院で行った演説の中で、
《Give me liberty,
or give me death》
私に自由を与えよ、
しからずんば死を与えよ。
と言っていたんですね。
明らかに
フランス革命は
アメリカ独立戦争の
影響を受けていたことになりますね。
ちなみに
ラファイエットは
バスティーユ牢獄襲撃の翌日に、
革命軍である国民衛兵の
指揮官に任命された時、
初めて
青、白、赤の三色を
兵士の徽章として採用したんです。
つまり、これがあの
フランスの三色旗の始まりと
されているんですね。
自由のシンボル
バスティーユ襲撃一周年記念
という革命祭典が
行なわれました。
この時
凱旋車に 自由の
擬人像が現れたのです。
祭典の内容は、
凱旋車を中心に、
人々が町から他の地点まで
行列して進むというもので
出発点や到達点、
また途中の広場などで、
儀式が行われたそうです。
そして
この 自由の擬人像は
絵画でも描かれました。
たとえば
フランスの歴史画家
ジャック・レアチュー
(1760年-1833年)の
「自由は世界を旅する」
または
「自由の勝利」(1794年)では
革命の祭典を
さらにダイナミックに
しかも古典的に描いています。
ここでは凱旋車ではなく
裸の男たちに担がれ
自由の象徴であるフリギア帽をかぶった
自由の像が描かれています。
フリギア帽は
古代の解放奴隷がかぶっていたところから
自由の象徴となっていたそうです。
自由の像が手に抱えている旗は
なんと現在のフランスの国旗と同じです。
そう、
現在のフランスの国旗は、
この絵画が描かれた
1794年に出来たんです。
それにしても、
2020年にマクロン大統領が
青の部分だけ改定しましたが
この絵画は、
それを予兆してたかのような
青色ですね。
自由の像を担ぐ男性たちも
フランスの国旗をかぶっています。
後ろの女性は
三角形の水準器をもっています
これは 平等をあらわしています。
この 平等については後ほど...
自由の像は
後のロマン主義の画家
ウジェーヌ・ドラクロワでも
「民衆を導く自由の女神」として
描かれています。
ここでも
女性がフリギア帽を
被っていますね。
”自由の女神”といえば
アメリカ・ニューヨークの
自由の女神像を思い浮かべますが
この自由の女神像は
アメリカ独立運動を支援した
フランス人の募金によって
贈呈されたもなんですね。
しかし
何故、自由の像が
女性なのでしょうか?
その由来は、
フランス語で「自由」を表す名詞
"la liberté" が
女性名詞であることにあるそうです。
「自由か死か」について
さて、
最初の絵に戻って見ましょう。
中央の
頭から炎が出ている天使は
〈フランスの精神〉を現しています
天使は
骸骨の死神〈死〉か
自由の象徴である
フリギア帽を掲げた女性〈自由〉か
どちらかを選ぶよう
この絵を見ている我々にうながしています。
しかし、
女性が示しているものは
なんと 自由だけではないんです。
左手に
三角形の水準器を
持っています。
これは、
その用途から
平等を現しています。
先ほどの
「自由は世界を旅する」
または
「自由の勝利」
でも描かれていましたね。
さらに
女性の足元には
束桿(そっかん)と呼ばれる
棒の束があります。
これは〈連帯〉すなわち
友愛の象徴なんです。
つまり
女性が示しているのは
「 自由、 平等、 友愛」
フランス共和国の標語なんです。
フランス革命の時に
標語が誕生したんですね。
自由は
「バスティーユ牢獄襲撃」の時に
出てきました。
1789年8月26日の
人権宣言で
自由を含む
基本的人権を
王族に認めさせ、
立憲王政の樹立をめざしましたが、
国王は議会の決議を
承認しようとしなかったのです。
君主制における国王の権力が
憲法によって規制されている政体のことです。
一方
失業者、賃金労働者、自営業などの
サン・キュロットと呼ばれた人々は
生活に苦しみ
生活改善を求めて
革命的民主主義者たちと結集し
パリで政治勢力を伸ばしてきました。
これに危機感を抱いた
王妃マリー・アントワネットは
同盟国軍が
声明を出して威圧するように求め、
1792年7月25日、
ブラウンシュヴァイクの宣言
を出しました。
ブラウンシュヴァイクの宣言とは、
パリ市民が
国王ルイ16世に
少しでも危害を加えれば
パリ市の全面破壊も辞さない
という内容の脅迫なのです。
これにより
パリ市民は一層激怒し
王制打倒こそが
唯一の解決策である
と考えるようになり
マルセイユから連盟兵が加わり
総勢2万はこえる民衆は
1792年8月10日の朝
蹶起して
テュイルリー宮殿の
国王を襲撃するという
8月10日事件(第二革命)
を起しました。
そして
この日を「平等元年」といいます。
その後
国王ルイ16世や
王妃マリー・アントワネットら
国王一家を捕らえました。
そして
1792年9月20日に
国民公会が招集され
国民公会は王政廃止を決定し、
第一共和政が開始されました。
国家元首の地位を
個人(国王)に持たせない
政治体制のことで、
国家の所有や統治上の最高決定権を
個人(国王)ではなく
人民または
人民の大部分が持つことなのです。
そこで 平等が出てきます。
1793年の人間と市民の権利
の宣言はこう宣言しています
全ての人間は
生まれながらにして平等であり、
法の下で平等である。
パリ市民は、
自宅の正面外壁に
共和国の一体性
および不可分性、
自由、平等
さもなくば死
というスローガンを書いていました。
そして
国王ルイ16世や
マリー・アントワネット
らは
ギヨタンが発案した
新しい処刑断頭台
ギロチン
によって処刑されたのです。
ところが
ロベスピエールが
独裁政治に進み
片っ端から邪魔者を
ギロチンにかけて
「恐怖政治」を行い
さらに
キリスト教に代わる神として
革命の共和政(平等)と
自由の理念を
「最高存在=神」
として崇拝する
祭典を挙行したのです。
これを(最高存在の祭典)といいます。
自由と 平等を盾に
独裁政治を行った
ロベスピエール
しかし民衆は黙っていませんでした。
1794年7月27日
国民公会の開会中に、
「暴君を倒せ!」の叫び声と共に
ロベスピエールは逮捕され、
翌28日
革命広場(現コンコルド広場)で
ギロチンにかけられてしまいました。
これを
(テルミドールのクーデタ)と言います。
そして
友愛の登場です。
共和暦3年憲法の前文である
1795年の人間と市民の権利と義務の宣言
でこう定義されています。
己の欲せざる所は
人に施すなかれ。
常に、
自分がされたいと思う善事を
他者に施すように。
思想家
ジャン=ジャック・ルソーは
『社会契約論』で、
友愛について
こう述べています。
友愛は
フランス人のみならず
外国人も含め、
自由と平等の実現と
維持のために
戦う全ての者を
抱擁するという
十全な使命を持っていた。
つまり、 友愛なくして
自由と 平等は
実現出来ないということです。
この絵は、
1795年に描かれたものです。
まさに、フランスの転換期
新しいフランスを描いたものなのです。
この絵を描いたのは
ジャン=バティスト・ルニョー
彼はこの絵を
サロン・ド・パリに出展しました。
ジャン=バティスト・ルニョーについて
ジャン=バティスト・ルニョー
(1754年 - 1829年)
パリで生まれ
15歳の時、
フランスの画家ジャン・バルダン
の弟子になり、
1768年にローマに留学、
また、
ジョゼフ=マリー・ヴィアン
(1716-1809年)
の教えも受けたそうで
彼も古典的な絵画を
描くことになりました。
1776年
「アレキサンダーとディオゲネス」で
ローマ賞の1位を受賞
ローマ賞の特典のローマ留学では
ジャック=ルイ・ダヴィッド
との交流がありました。
1782年にフランスに帰国すると
王立絵画彫刻アカデミー
の会員に選ばれます。
主に
神話や古代のテーマを
描いていました。
しかし
革命時には、
今回の「自由か死か」
だけでなく
1811年の
「オーストリアから旗を引き継ぐフランス上院議会」
も描いています。
こちらも見る側に
訴える作品になっていますね。
彼の弟子には
ピエール=ナルシス・ゲラン
(1774-1833)
がいます。
ゲランも
新古典主義絵画を
描いていましたが
ゲランの弟子の
ドラクロワは
ロマン主義の巨匠になりましたね。
ジャン=バティスト・ルニョーは
1807年に
国立高等美術学校の
教授に任命されました。
ルニョーの没後、
1829年には
ダヴィッドの弟子である
ドミニク・アングルが引き継ぎました。
アングルは師匠の新古典主義絵画を
継承し続けました。
皮肉にも
アングルの最大のライバル
ドラクロワは
ジャン=バティスト・ルニョーの
孫弟子です。
そのドラクロワが
ルニョーの後任として
国立高等美術学校の
教授になれなかったのは
やはり
ロマン主義に走ったからかな?