
一遍が念仏を唱えながら全国各地を
布教のために遊行(ゆぎょう)して
歩いたところから
“遊行宗(ゆぎょうしゅう)”とも呼ばれている。
浄土宗西山(せいざん)派
一遍(1239~1289)
十歳で出家
法然の孫弟子・
聖達(しょうたつ)の弟子となり
約10年の修行をした。
この期間
“浄土教”を学ぶ。
その後、
地元の窪寺で約3年間、修行を重ね
そこでさとりを開いたという。
そのさとりは
阿弥陀仏のさとりと
衆生(しゅじょう)の救済とは
同時のものであって、
これを可能にするのは
「南無阿弥陀仏」の名号である
であった。
それから、一遍(いっぺん)は
難波(大阪)の天王寺、高野山と歴訪とつづけながら、
衆生(しゅじょう)に念仏を説きすすめてまわった。
一遍(いっぺん)が
「捨聖(すてひじり)」また
「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」
と呼ばれたのは
衣・食・住と故郷、家族をすべて捨てて
1ヶ所に留まらず遊行生活を送っていたからである。
しかし、一遍(いっぺん)にも迷いがあった
人々に救済の道として念仏を教えても
それが拒否された場合に、どうしたらよいか である
そこで、熊野神に教えを乞うたところ
「信不信、浄不浄を問わず、ただ教えをひろめよ」
と答えられた。
一遍(いっぺん)は、
小さな紙に
「南無阿弥陀仏(決定往生六十万人)」
と記した念仏の
“名号札(みょうごうふだ)”
を配りながら歩く
“賦算(ふさん)”を始めた。
四国・九州・・・・と遊行していくうちに
一遍(いっぺん)を慕う人々が
あとにぞろぞろつづくようになり、
“踊り念仏”まで現れて、
一遍(いっぺん)の独特の布教スタイルが完成した。
“踊り念仏”とは
鉦(かね)や太鼓などを打ち鳴らし、
「南無阿弥陀仏」を唱えながら踊るというもので、
人々は法悦状態に導かれたそうだ。
これを「盆踊り」のルーツと見る人もいた。
一遍(いっぺん)の独特の布教スタイルは
爆発的な人気になり
四条京極の釈迦堂に赴いた際は、
あまりの群衆に身動き出来ない状態だったと
伝えられている。
さらに一遍(いっぺん)は遊行を続け
神戸市兵庫区にある観音堂(後の真光寺)で亡くなった
51歳だった。辞世の句は、
「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」
死因は過酷な遊行による過労、栄養失調という説がある。
阿弥陀仏
ただし、一遍は、
それを身近に具体化したものとして、
「南無阿弥陀仏」という
名号(みょうごう)を本尊とする
と信徒には教えている。
「浄土三部経」
『無量寿経(むりょうじゅきょう)』
『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』
『阿弥陀経』
とくに『阿弥陀経』が中心
一遍の思想は、
浄土真宗の親鸞(しんらん)の
衆生(しゅじょう)が阿弥陀如仏を信じたときに救われる(浄土で往生できる)
という考えをさらに一歩すすめたもので、
信仰の有無にかかわらず、南無阿弥陀仏という名号(みょうごう)をとなえれば、阿弥陀仏が衆生(しゅじょう)を救ってくれる【浄土で往生できる】
とするもの。
この他力念仏をすべての人びとにすすめ、
もろともに浄土の往生を願った一遍は、
生涯を通じて
「南無阿弥陀仏(決定往生六十万人)」
と記した念仏の
“名号札(みょうごうふだ)”を配りながら、
全国を遊行して歩いた。
信徒もともに集団をつくってそれに従ったという。
この信徒を「時宗(じしゅう)」と呼ばれるようになった。
踊り念仏
空也(くうや)が、
鉢をたたきながら「南無阿弥陀仏」をとなえ、人々に念仏をすすめたのが起源。
これを一遍が受け継いだ。
以後、踊りを主体とする
「念仏踊り」へと変質していった。
清浄光寺
遊行(ゆぎょう)上人第四代呑海が寺院を創立
俗に“遊行寺(ゆぎょうじ)”とも呼ばれる。
神奈川県藤沢市西富1丁目8−1
無量光寺
一遍の弟子の中で、特にすぐれた弟子で
二代遊行となった真教が、一遍の死後
16年にわたる遊行ののちに建立した寺。
神奈川県相模原市南区当麻578
金蓮寺
二代真教の弟子・浄阿真親が寺院を創立
歴代皇室の帰依が厚く、旧四条派の本山
京都府京都市北区鷹峯藤林町1−5
日輪寺
二代真教の開山。
江戸時代には
時宗触頭(ふれがしら)として、
幕府との交渉に当たっていた。
また、歴代の住職は
幕府の連歌(れんが)衆もつとめている。
東京都台東区西浅草3丁目15−6