
日本映画は、
「邦画」とも呼ばれています。
当ブログでも「邦画」にしてますね。
これは、海外の映画
主に、アメリカ映画とヨーロッパ映画の
「洋画」にたいして
日本では「邦画」として区別したものです。
日本映画が誕生して、
100年以上経ちます。
どんな映画があったのでしょうか?
また、
どんな歴史があったのでしょう?
数ある資料をもとに
独自の視点で紹介します。
1903(明治36)年
吉沢商店が浅草に
日本で最初となる映画専門館
「電気館」を設置
1909(明治42)年
尾上松之助の第一回作品
「基盤忠信」が公開し大ヒットとなる。
「目玉の松ちゃん」
として日本で最初の
スターが誕生した。
1912(大正元)年
横田商会・吉沢商店
M・パテー商会・福宝堂の
4つの映画会社がトラスト合同を行い、
日本活動写真株式会社(日活)が出来た。
日活は、
日本初の本格的な映画会社となった。
🎬伊藤大輔
🎬稲垣浩
🎬溝口健二
🎬内田吐夢
🎬田坂具隆
1920(大正9)年
歌舞伎を本業としていた松竹が
松竹キネマ合名会社を設立
🎬島津保次郎
🎬小津安二郎
🎬清水宏
🎬斎藤寅次郎
1921(大正10)年
牧野省三は
日活京都撮影所の所長を辞めて、
牧野教育映画製作所を設立。
1923(大正12)年
関東大震災で
日活向島撮影所も
松竹蒲田撮影所も倒壊した。
日活向島撮影所は
京都へ引っ越して太秦にスタジオを建て、
京都撮影所もこれに合流した。
松竹蒲田撮影所も京都に移り、
下加茂撮影所を建てて撮影を開始。
1924(大正13)年
阪東妻三郎も東亜キネマを退社、
牧野省三の後押しを受け、
阪東妻三郎プロダクションを設立。
牧野総指揮のもと阪妻プロ第一作
『雄呂血』を完成させ、
日本に「剣戟 ブーム」を起こした。
剣戟(チャンバラ)スター
(七剣聖)阪東妻三郎
大河内傅次郎
嵐寛寿郎
長谷川一夫
市川右太衛門
月形龍之介
片岡千恵蔵
1926(大正15)年
衣笠貞之助は
”衣笠映画連盟”を創り、
川端康成と共に
日本初の前衛映画
「狂った一頁」を作った。
🎬衣笠貞之助
1929年(昭和4年)
マキノ正博が
ディスク式トーキー作品
『戻橋』を製作し、
日本で最初のトーキー映画を公開。
全国的なヒットとなった。
しかし、
ディスク式は上映会場で映写技師が
映像のフィルムと音声のレコードを
同時にながさないと合わないので、
現場での苦情が殺到していた。
1930年(昭和5年)
日活では、
溝口健二による発声映画
「ふるさと」が完成したが、
フォノフィルム録音方式という
レコード式による録音方式で、
技術的に未熟で失敗におわる。
1920(大正9)年に設立した
帝国キネマは、
傾向映画の代表作としても知られる
「何が彼女をそうさせたか」
を作り大ヒットとなった。
ところが
スタジオから火が出て全焼してしまった。
そこで松竹は、
本腰を入れて帝国キネマを呑み込み、
松竹太秦撮影所へ引っ越して、
”新興キネマ”と社名を変更した。
日活から
村田実、溝口健二、内田吐夢、田坂具隆、
入江たか子、岡田時彦などがきた。
溝口健二 「滝の白糸」(昭和8/1933)
内田吐夢 「警察官」(昭和8/1933)
1932年 (昭和7年)
PCL(写真化学研究所)と
JOスタジオは
小林一三などの働きにより
阪急資本による配給会社
「東宝映画配給」などと合併し、
東宝映画が生まれた。
1935年 (昭和10年)
東京発声が創設し、
東宝と配給契約を結んでいた。
🎬豊田四郎
1937(昭和12)年
ドイツのアーノルド・ファンクと
日本の伊丹万作の共同監督で
国策的映画が製作された
『新しき土』である。
🎬伊丹万作
この映画で
ヒロイン役に抜擢されたのが、
当時16歳の原節子だった。
日中戦争が始まる。
1938(昭和13)年
田坂具隆が
「五人の斥候兵」を
日中開戦の半年後に発表
この年のキネマ旬報で
日本映画ベスト・ワンに選ばれている。
さらに、
ヴェネツィア国際映画祭では
イタリア民衆文化大臣賞を受賞した。
1941(昭和16)年
映画会社は三社に統合された。
松竹は興亜映画を吸収。
東宝は
大宝、東京発声、
南旺、宝塚映画を吸収。
日活、新興キネマ、大都映画は統合して
大映(大日本映画株式会社)となる。
🎬亀井文夫
1946~48年
《東宝争議》
第一次争議
GHQは、
労働組合の育成にも熱心であったため、
映画会社でも組合が結成され、
各組合は会社に
待遇改善を求めるようになった。
東宝株式会社では、
労働協約をめぐって労使が対立。
赤字と共産主義勢力の
一掃をめざす会社側が、
一方的に従業員の
大量解雇を発表したことで、
火蓋が切られた。
第二次争議では、
撮影所の従業員組合が分裂、
「十人の旗」の下に
大河内傅次郎、長谷川一夫、
黒川弥太郎、藤田進、
原節子、高峰秀子、山田五十鈴、
入江たか子、山根寿子、花井蘭子がぬけ、
また監督や技術者たち
五十余人が行動を共にして、
「新東宝」を作る
離脱したスターの穴を埋めるため、三船敏郎などの
「東宝ニューフェイス」が誕生。
第三次争議には、
組合側は各種団体の支援のもと、
撮影所を占拠して抵抗を続けた、
武装警官2500人、
アメリカ占領軍第八軍の一部
(飛行機、戦車)などが出動、
籠城188日に及ぶ従業員が
隊伍を組んで去ったことによって、
ようやく終熄(しゅうそく)した。
第三次争議の解決条件によって
組合執行部の
亀井文夫、山本薩夫など20人が辞職した。
🎬山本薩夫
🎬市川崑
🎬成瀬巳喜男
1950年
[レッドパージ]
連合国軍最高司令官
ダグラス・マッカーサー元帥は
共産主義者追放の命令を出し、
新聞、放送、映画、演劇に対して
レッドパージを行った。
映画は
大映30人、松竹66人、
東宝13人、日映25人、
理研3人に対して通告がなされた。
監督では
今井正、五所平之助、
家城巳代治らが
映画会社から追われた。
[独立プロ]
吉村公三郎、新藤兼人が
松竹を離れて、
独立プロ「近代映画協会」を起こした。
🎬新藤兼人
マキノ正博は、
CAC(シネ・アート・サークル)を設立し
ストライキで作品の足りない東宝と提携
長谷川一夫、山田五十鈴など
東宝を去った人たちによって作られた
新演技座プロなど
独立プロが相次いで起こった。
1951年
サンフランシスコ講和条約が締結されると、
翌年にGHQによる映画検閲が廃止となる。
東横映画株式会社と
太泉映画株式会社が合併して
東映(東京映画株式会社)が設立した。
松竹は
国産の富士カラーを用いた
色彩映画の第1作
「カルメン故郷に帰る」を公開
宝塚から映画への進出が目立った。
乙羽信子が大映へ、淡島千景が松竹へ、
越路吹雪と久慈あさみが東宝へ。
他に日高澄子、高千穂ひづる、浜木綿子など
[プログラム・ピクチャー&五社協定]
このころ各映画会社は、
大型予算をかけた大作以外に、
定期的に映画館に配給される作品
(通常プログラム)によって
独自の路線を築き上げ、
自社の映画の特色を明確にしていった。
これを
プログラム・ピクチャーと言う
また、
大手映画会社5社
(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)は、
専属する監督、俳優らに対して
他社への活動を一切禁止する
五社協定を調印
後に日活も加わり六社協定となる。
松竹
人情喜劇が中心。
🎬木下惠介
🎬小林正樹
大映
男優では長谷川一夫、
市川雷蔵、
女優では京マチ子、
山本富士子、若尾文子と、
さらに
他社専属やフリーの
高峰秀子、岸惠子らが活躍。
1957年
勅使河原宏や羽仁進などの
若手映画人らが
グループ「シネマ57」を結成し、
実験映画の製作などを行っていた。
🎬勅使河原宏
🎬羽仁進
フジテレビに在籍していた
🎬五社英雄が松竹へ出向し
『三匹の侍』で映画監督としてデビュー。
テレビ畑出身、
映画界での下積み経験のない人材が
大手映画作品に進出していく契機となる。
1961年
新東宝が製作停止、翌年営業を停止
日活
無国籍映画と云われた
和製西部劇
小林旭の
「渡り鳥」シリーズや
「流れ者」シリーズなどが大ヒット吉永小百合、高橋英樹、
渡哲也、山本陽子、
松原智恵子、藤竜也、
梶芽衣子、杉良太郎らを輩出した
🎬今村昌平
🎬鈴木清順
🎬浦山桐郎
🎬熊井啓
ATG
1961年に、
日本アート・シアター・ギルド (ATG) 設立。
(~1992年)
非商業主義的な芸術作品を
製作・配給した。
新藤兼人、羽仁進などの
独立系監督のほか、
三島由紀夫(作家)、
🎬実相寺昭雄(テレビ演出家)、
🎬寺山修司(演劇)、
田原総一朗(ジャーナリスト)、
清水邦夫(演劇)などの
異業種出身監督や
🎬黒木和雄、
🎬松本俊夫の新人など、
多くの出身者や作風に門戸を広げた。
[ピンク映画]
ピンク映画と呼ばれるものが作られ、
次第に数を増して
1965年には218本作られている。
🎬武智鉄二の「白日夢」(64)は、
完全ヌードが評判になってヒット。
つづいて武智は「黒い雪」を撮り、
警視庁の摘発となった。
1965年8月12日、
松竹京都撮影所が閉鎖した。
従業員228人は大部分退職した
[長篇ドキュメンタリーの活躍]
1960年代後半から
70年代初頭にかけて、
時代と真正面から対峙し、
果敢に核心部分へと
切り込んでいった
記録映画作家たちが出てくる。
🎬小川伸介
🎬土本典昭
🎬原一男
1971年8月
日活は
映画製作を中断し
ロマンポルノ映画の製作を宣言した。
11月20日
日活ロマンポルノはスタートを切った。
🎬神代辰巳
🎬村川透
🎬若松孝二
🎬田中登
🎬藤田敏八
12月20日
大映は、
倒産宣言をし管財人の管理下に置かれた。
東京と京都の撮影所は人手に渡り、
貸しスタジオとなった。
1975年
入場者数はついに
1億台になってしまった。
ピークの十分の一。
映画館も7000館台から2000台に落ちた。
角川映画
1976年
角川春樹が映画製作に進出、
出版やテレビドラマ等との
複合的効果を狙った
メディアミックスマーケティングを展開し、
『犬神家の一族』を皮切りに、
大作を立て続けに大ヒットさせた。
角川映画の勢いは1980年代半ばまで続いた
アニメ映画
アニメ映画は
評価されていなかった時代に、
1977年
『宇宙戦艦ヤマト』が
日本映画で初といわれる
徹夜組を出した。
さらに
1979年には
『銀河鉄道999』が公開され、
1979年度の邦画配収第一位となった。
1980年になると
大手のスタジオシステムは崩壊し、
個人製作映画が主流となってくる。
また、
有名人を映画監督に担ぎ出す動きが相次ぎ、
ミュージシャンや俳優
作家、画家など異業種の監督が出現した。
🎬伊丹十三
🎬押井守
🎬石井竜也
🎬北野武
🎬竹中直人
🎬川島透
🎬崔洋一
🎬滝田洋二郎
[インディーズムービー]
情報誌「ぴあ」の
「ぴあフィルムフェスティバル」や
文芸坐、上板東映などの名画座による、
自主映画への制作・公開への支援や媒介
インディーズムービー・フェスティバル
などにより自主映画出身の監督が
続々現れた。
🎬岩井俊二
🎬坂本順治
🎬市川準
🎬三谷幸喜
🎬周防正行