孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

 

子曰、
若聖與仁、則吾豈敢、抑爲之不厭、
誨人不倦、則可謂云爾已矣、
公西華曰、
正唯弟子不能學也、

述而7-33

先生がいわれた

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子曰く

せいとかじんなどというのは、
私などとても
及びもつかないことだ。

ただ、
せいじんへの道を行って
あきることなく、

また
人を教えておこたらない
ということは、

いってもらっても宜しかろう。

孔子

すると、
公西赤こうせいせきがいった。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

公西赤
本当に
それこそ!
我々弟子たちには、
真似マネの出来ないことで
ございます。
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たぶん世界で初の私立学校を創設!

孔子は、
この下剋上げこくじょうの世の中で
理想の政治を実現するために、
それに相応ふさわしい君主を
もとめて旅をしました。

しかし現実は厳しく、
たとえ君主に気に入られても、
その家老たちの陰謀で追放され、
なかなか実力を発揮できず

迹を衛に削り、樹を宋に伐られ、
商周に窮し、陳察に囲まれ

『荘子』譲王

と結局14年間も放浪の旅を
しなければなりませんでした。

ようやく祖国の魯に呼び戻された時には、
孔子は69歳です。

孔子は祖国に戻ると
私立学校を創設し
誰でも教育を受けられると呼びかけ、
広く生徒を受け入れました。

その多くは身分の低い人びと
(平民や奴隷)でしたが
中には権力や富を持った
貴族の弟子もいました。
南宮敬叔なんきゅうけいしゅく司馬牛しばぎゅう、富商の子貢しこうなど)

そこには、身分関係なく、
より多くの人に
自分の思想を伝えて
君子になるように育てて
その君子になった弟子たちが
理想の政治を実現してくれることを
願ったのです。

君子とは、
もともと君主を補佐する
士大夫したいふ階級の者をさしており
その者が徳の出来上がった
理想的な人格者であって
君主を聖人の域に導く役目を果たします。

孔子先生はこう言います。

子曰、
有敎無類、

衛霊公 15-39

孔子曰く

教育による違いはあるが、
生まれつきの類別はない。
だれでも教育によって
立派になる

孔子

そして、
弟子の知力・性格・志向などは
各々に差があり、
その人材に合わせて
教えを変える
という教育法を実行しました。

孔子先生の弟子は3000人となり
そのうち六芸を身に着けたものが
7277人います。
これを「七十子」と呼びます。

「六芸」 とは、
古代中国で士大夫したいふ
学ぶべき教養のことで、
「礼」=礼節(道徳)、
「楽」=音楽、
「射」=弓術、
「御」=馬術、
「書」=文学、
「数」=数学の六つです。

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孔門十哲

「七十子」の中で
孔子とともに亡命し、
苦難の人生を支え、
そのうえ優秀だった
10人が
孔門十哲こうもんじってつ
呼ばれています。

孔門十哲こうもんじってつには
徳行とっこう=仁徳を行動に表す才能」
弁舌べんぜつ=弁舌の才能」
政事せいじ=政治家としての才能」
文学ぶんがく=詩書の才能」
という4つの科目で評価を得ています
これを聖門せいもん四科しかと言います。

聖門の四科

徳行顔淵閔子騫冉伯牛仲弓、
言語宰我子貢、
政事冉有季路、
文學子游子夏、

先進11-3

徳行とっこうでは

顔回、貧しく短命だった孔子の最も自慢の弟子

顔回がんかい

閔子騫びんしけん

冉伯牛ぜんはくぎゅう

仲弓ちゅうきゅう

弁舌べんぜつでは

宰我さいが

子貢しこう

政事せいじでは

冉求ぜんきゅう

子路しろ

文学ぶんがくでは

子游しゆう

子夏

子夏しか

 

 

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論語に登場する「七十子」孔門十哲以外)

 

子張しちょう

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉
(
紀元前503 – ?
子張しちょうは字、姓は顓孫せんそん、名は師。

孔子より48歳若い、
『論語』では子路・子貢に
次いで出現回数が多く、
第十九篇は「子張しちょう篇」と
呼ばれている項目がある。

孔子の死後
儒家(孔子の弟子たち)は8派に分かれ
その1つに子張しちょうの弟子たちの「子張之儒」がある。

でも子張しちょうは孔門十哲には含められていない。

子張學干祿、
子曰、
多聞闕疑、愼言其餘、則寡尤、
多見闕殆、愼行其餘、則寡悔、
言寡尤行寡悔、祿在其中矣、

為政2-18

子張しちょう
ろく(給与)を得るための
方法を学ぼうとしていた。

先生はいわれた。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
なるだけ多く聞いて、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
そして、
疑わしいところはやめて、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
それ以外の
自信の持てることを
慎重に言えば、
過ちは少なくなる。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
たくさん見て
あやふやなところは
やめて、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
それ以外の確実なことを
慎重に実行していけば、
後悔は少なくなる。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
言葉に過ちが少なく、
行動に後悔が少なければ、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
ろく(給与)は
自然に得られるものだ。+

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
ろく(給与)を得るための
特別な勉強など
というものはない。

 

子張問、士何如斯可謂之達矣、
子曰、何哉、爾所謂達者、
子張對曰、在邦必聞、在家必聞、
子曰、是聞也、非達也、夫達者、
質直而好義、察言而觀色、慮以下人、
在邦必達、在家必達、夫聞者色取仁而行違、
居之不疑、在邦必聞、在家必聞、

顔淵12-20

子張しちょうがおたずねした。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
士人は
どのようであれば
通達
言えるのでしょう。

先生はいわれた。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
どういうことだね。
お前の通達というのは。

子張しちょうがお答えして言った。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
国にいても
きっと評判がよく

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
家にいても
きっと評判がよいことです。

先生はいわれた。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
それは評判のよいことで、
通達ではない。
孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

元来、通達というのは、

真っ正直で正義を愛し、
人のことばをよく考えて
顔色を見抜き、
気をつけて
人にへりくだって、
国にいてもきっと通達し、
家にいてもきっと通達することだ。
孔子
孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉
一方、評判がよいという方は、
うわべは
仁らしくしているが
実行はともなわず、
現在におちついて
疑いを持たず、
国にいてもきっと評判がよく、
家にいてもきっと評判がよいというものだ。
孔子

 

子張曰、
士見危致命、見得思義、
祭思敬、喪思哀、其可已矣、

子張19-1

子張しちょうが言った。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
士人は
危機を見れば
命を投げ出し

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
利益を見れば
道義を考え、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
祭りには
敬意を払い、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
喪には
悲しみを思う。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
まあ
それで宜しかろう。

 

子張曰、
執德不弘、信道不篤、
焉能爲有、焉能爲亡、

子張19-2

子張しちょうが言った。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
徳を得ても広くなく、
道を信じても固くはない。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
それでは
居るというほどのこともなく、
居ないというほどのこともない。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
居ても
居なくても
同じだ。

 

子夏之門人問交於子張、
子張曰、子夏云何、
對曰、子夏曰、可者與之、其不可者拒之、
子張曰、異乎吾所聞、君子尊賢而容衆、
嘉善而矜不能、我之大賢與、於人何所不容、
我之不賢與、人將拒我、如之何其拒人也、

子張19-3

子夏しかの弟子が、
交際について
子張しちょうにたずねた。

子張しちょうが言った。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
子夏しか
何と言ったか。

子夏しかの弟子は

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子夏の弟子
子夏しか先生は・・・

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子夏
よい人と交際して、
よくない人は
ことわるように。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子夏の弟子
・・・
といわれました。

と答えた。

子張しちょうは言った。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
私が先生から
聞いたこととは違う。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
君子は
すぐれた人を尊びながら、
一般の人々をも包容し。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
善い人をほめながら、
だめな人にも同情する。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
こちらが
とてもすぐれている
のなら、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
どんな人に対しても
みんな包容できようし、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
こちらが劣っているのなら、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
向こうがこちらを
ことわるだろう。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子張
どうしてまた
人をことわる
ことがあろうか。

 

子賤しせん

宓不斉ふくふせい(生没年未詳)字は子賤しせん

『論語』では
一度だけしか登場していないが、
『史記』仲尼弟子列伝、
『孔子家語』、『呂氏春秋』
などに登場している。

それによると
子賤しせんは単県の長官になる。
この時、孔子は

孔子
狭い土地で
政治を行わせるのは
もったいない(T_T)

と批評した。

そして、
子賤しせんはなんと
古琴を弾いているだけで
単県が治まったそうだ。

以前に単県を治めた
巫馬期ふばきは、
そのとき非常に苦労したため、
子賤しせんがあまりにも簡単に
単県を治めたことを不思議に思って
子賤しせんにたずねてみると、

子賤
力に任せず

子賤
人に任せて
いるために

子賤
苦労せず
治められるのだ

と答えたという。

子謂子賤、君子哉若人、
魯無君子者、斯焉取斯、

公冶長5-3

先生は
子賤しせんのことを
こう言われた

君子だね。

こうした人物は。
でも、
もし魯の国に
君子がいなかったら、
この人(子賤しせん)
なかなかこうには
なれなかったろう。

孔子

 

 

原憲げんけん子思しし

原憲げんけん(生没年未詳)

孔子の死後、
衛の国に隠居する
その生活は
雨漏あまもりするような
粗末なあばら家に住み、
琴を弾きながら
歌う生活をしていたそうな。

ある日、
孔子の弟子仲間であった
子貢しこうが訪れた。

子貢しこうは富裕な生活を送っており、
美しい衣装と立派な馬車に乗っていた。

訪れた子貢しこう
原憲げんけんの姿を見て、

子貢
あなたは何と
病んで(苦しんで)
おられる事か

なげいて言った。

原憲げんけんは答えた

原憲
あなたは、
財産が無い者を
貧しいと言い、

原憲
学びながら
それを行えない事を
病む(苦しむ)と
いうのか❕

原憲
私は
貧しくはあるが
病んでなどいない

さらに原憲げんけん

原憲
世間の目を気にして行動し、
周囲にへつらう者を友とし、

原憲
他人にほこ
学問をし、
謝礼しゃれいの為
他人に学問を教え、

原憲
仁義の心を
誤魔化ごまか

原憲
馬車を立派に
飾り立てる
といった行動は、

原憲
私には
とても出来ない

子貢しこう
痛烈に批判した。

子貢しこう

子貢
・・・・・
(´;ω;`)

大いに恥じ入り、
生涯
己の発言を
悔やんだと言われる。

 

憲問恥、
子曰、邦有道穀、
邦無道穀、恥也、

憲問14-1

原憲げんけん
について
おたずねした。

先生はいわれた。

孔子
国家に道があれば
仕官して
ろく(給与)を
受けるが、

孔子
国家に道が
ないのに
ろく(給与)を
受けるのは

孔子
である

 

公冶長こうやちょう

伝説によると、
公冶長こうやちょうは鳥と会話が出来る

という特殊能力が備わっており、
その力によって
死体の場所を知ることができた

ところが、
これがかえって犯人と疑われて
牢屋に入れられてしまった。

後に、
公冶長こうやちょうは雀の言葉を理解できることを
実証してみせたために釈放出来たそうな。

子謂公冶長、可妻也、
雖在縲紲之中、非其罪也、
以其子妻之、

公冶長5-1

先生は
公冶長こうやちょうのことを

娘をめとらせてもよい。

獄中につながれたことはあったが、
彼の罪ではなかった。
孔子

といわれ、
自分の娘をめとらせた。

 

顔路がんろ

顔回がんかい顔回、貧しく短命だった孔子の最も自慢の弟子
父親の顔路がんろは、
孔子より6歳年下で、
孔子の最初の弟子の一人です。

顔淵死、
顔路請子之車以爲之椁、

子曰、
才不才、亦各言其子也、鯉也死、
有棺而無椁、吾不徒行以爲之椁、
以吾從大夫之後、不可徒行也、

先進11-8

顔回がんかいが死んだ。

父の顔路がんろ

先生の車をいただいて
そのかくかんの外ばこ)を作りたいと願った。

顔回、貧しく短命だった孔子の最も自慢の弟子
孔子曰く

才能があるにせよ
才能がないにせよ、

やはりそれぞれに
わが子のことだ。

(親の情に変わりはない。)
わたしの息子の孔鯉こうりが死んだときにも、
棺はあったがかくはなかった。
だが、
わたしは徒歩で歩いてまでして
(自分の車を犠牲にまでして)
そのかくを作りはしなかった。
わたしも
大夫たいふの末席についている
からには、

徒歩で歩くわけには
いかないのだ。

孔子

 

 

漆雕開しっちょうかい

(紀元前540 – ?
孔子より11歳若い。

子使漆雕開仕、
對曰、吾斯之未能信、
子說、

公冶長5-6

先生は
漆雕開しっちょうかい
仕官させようとした。

漆雕開しっちょうかい
それに答えてこう言った。

漆雕開
わたしはそれには、
まだ自信が持てません

孔子
・・・😆
(≧▽≦)

先生は
その向学心の
あついのを喜ばれた。

 

南宮敬叔なんきゅうけいしゅく


姓は南宮なんきゅう、名は括、字は子容

国の三桓さんかんである孟孫もうそん氏の一族。
父である孟釐子もうきし
すぐれた人物であり、
まだ一青年に過ぎなかった孔子を讃え、
自分が臨終のさいには、
かならず孔子に師事するようにと言いのこした。
そして父の遺言にしたがって、
兄の孟懿子もういしと共に、
孔子に礼を学ぶために弟子入りした。
孔子が最も早い時期に
受け入れた弟子である。

礼を老子に問う

また、
孔子と共に
洛陽におもむ
あの老子
周代の礼儀制度の教えを
うたこともある。

子謂南容、邦有道不廢、
邦無道免於刑戮、以其兄之子妻之、

公冶長5-2

先生は
南宮なんきゅうのことを。

孔子曰く

国家に
道があるときには
きっと用いられ、
道のないときにも
死刑にふれることはない。
孔子

といわれ、
その兄さんの娘をめとらせた。

 

南宮适問於孔子曰、
羿善射、奡盪舟、俱不得其死然、
禹稷躬稼而有天下、
夫子不答、南宮适出、
子曰、
君子哉若人、尙德哉若人、

憲問14-6

南宮なんきゅう
孔子に
おたずねして言った。

南宫括
羿げいは弓の達人で、

南宫括
ごう
舟を動かすほどの
力持ちでしたが、

南宫括
どちらも
ふつうの死にかたが
できませんでした。

南宫括
ところが
しょく

南宫括
自ら耕して
それで天下を
とりましたが・・
・・・・(・_・;)

孔子
・・・・

南宫括
大切なのは
力より徳ですか?
(・_・;)

孔子

。。。(・_・;)

先生は
答えられなかった。

南宮なんきゅう
部屋から出ていくと、
先生はいわれた。

君子だね

このような人は。
徳をとうとぶんだね、
こういう人は。
孔子

司馬牛しばぎゅう


姓は司馬。
名はこうまたは
字は子牛しぎゅう

兄の桓魋かんたい

孔子を恨んでいて
報復の機会を狙っていた。

ある日、
孔子と弟子達が大きな本の下で
礼儀の演習をしていた時、
桓魋かんたいは、孔子を殺そうとして、
人をやって大本を切り倒させ、
まず孔子に自分の力を誇示した。

弟子達は
孔子に早く立ち去るように勧めたが、
孔子は落ち着いて言った。

子曰、天生德於予、
桓魋其如予何、

述而7-22

先生がいわれた

孔子
私は
天に徳を
授かった身だ。

孔子
桓魋かんたいごときが
我が身を
どうしようぞ

しかし、
孔子と弟子達はやはり逃げ去った。

司馬牛憂曰、
人皆有兄弟、我獨亡、
子夏曰、商聞之矣、死生有命、富貴在天、
君子敬而無失、與人恭而有禮、
四海之內、皆兄弟也、
君子何患乎無兄弟也、

顔淵12-5

司馬牛しばぎゅうは悲しんで言った。

司馬牛

人には皆
兄弟がいるのに、

私だけにはいない
(TдT)

子夏しかは言った。

子夏
この私はこう聞いています。

孔子
死ぬも生きるも定めあり、
富みもたっとさもままならぬ。

子夏
と。

子夏
だから、
あなたの兄さんのことも、
しかたがない。

司馬牛


兄ちゃん・・

子夏
けど、

君子は

慎んでおちどなく、
人と交わるのに
丁寧にして
礼を守ってゆけば、
世界じゅうの人は
みな兄弟になる。
子夏

子夏
君子は
兄弟の無い事など
どうして気にかける
ことがあろうか

司馬牛
(TдT)・・
ありがとう
子夏

 

 

樊遅はんち


姓は樊、名はしゅ、字は子遅しち
国の人、
孔子より36歳若い

樊遲從遊於舞雩之下、
曰、敢問崇德修慝辨惑、
子曰、善哉問、
先事後得、非崇德與、
攻其惡無攻人之惡、非修慝與、
一朝之忿忘其身以及其親、非惑與、

顔淵12-21

樊遅はんち
先生にお供して
雨乞いに舞う台
あたりで散歩をしていた。

樊遅はんちがおたずねした。

樊遅
教えて下さい。

樊遅
徳をたかめ
邪悪よこしまをのぞき
迷い
はっきりさせる
には

樊遅
どうしたらいいですか。

先生が言われた。

孔子
立派だね、
その質問は。

孔子
仕事を先にして
利益は後回しにするのが、
徳をたかめること
じゃなかろうか。

孔子
自分の
悪い点を責めて
他人の
悪い点を責めないのが、
邪悪よこしまを除くこと
じゃなかろうか。

孔子
一時の怒りに
わが身を忘れたうえ、
近親まで
巻き添えにするのは、
迷いじゃなかろうか。

 

樊遲請學稼、
子曰、吾不如老農、請學爲圃、
子曰、吾不如老圃、樊遲出、
子曰、小人哉樊須也、
上好禮、則民莫敢不敬、
上好義、則民莫敢不服、
上好信、則民莫敢不用情、
夫如是、則四方之民、
襁負其子而至矣、焉用稼、

子路13-4

樊遅はんち

樊遅
殻物の作り方を
教えてください。

と願うと。
先生はこたえられた。

孔子
私は
ベテランの百姓には
及ばないよ。

樊遅はんちは、

樊遅
野菜の作り方を
教えていただきたい

と願った。

先生はこたえられた。

孔子
私は
ベテランの
野菜つくり
には及ばない。

樊遅はんちが退出してから、
先生はいわれた。

孔子
小人しょうじんだね、
樊遅はんちは。

孔子曰く

かみに立つ者が礼を好めば、
人民はみな尊敬するし。

かみに立つ者が正義を好めば、
人民はみな服従するし。

かみに立つ者が誠実を好めば、
人民はみな真心を働かせ
不人情になることはない。

まあ
そのようであれば、

人民はその徳を慕い、
四方の国々からも
子供を背負って
集って来るであろう。

孔子

孔子
どうして
穀物づくりを習う
必要があるものか。

有若ゆうじゃく


姓は有、名は若。
孔子より四十三歳わかい。

容姿が孔子に似ていたので、
孔子の死後、
子夏しか子張しちょう子游しゆうらが
孔子のかわりに
有若ゆうじゃくに仕えようとしたが、
曾子そうしがこれを批判したという。

哀公問於有若曰、
年饑用不足、如之何、
有若對曰、盍徹乎、
曰、二吾猶不足、如之何其徹也、
對曰、百姓足、君孰與不足、
百姓不足、君孰與足、

顔淵12-9

国の君主の哀公あいこう
有若ゆうじゃくに問うて言った。

哀公
今年は飢饉で
税収が足りない。
これを
どうすればいいか。

有若ゆうじゃくが答えて言った。

有若
いっそ収穫の
十分の一
課税なさっては。

哀公あいこうが言った。

哀公
今まで
十分の二
取っても
まだ足りないのに、
どうして
十分の一
下げるのか💢❕

有若ゆうじゃくが答えて言った。

有若
万民が足りているのに、

有若
君主のあなたは、
いったい誰と共に
不足だと言うのですか!

有若
万民が
足りていない
というのに、

有若
君主のあなたは、
いったい誰と共に
満たそうと
するのでしょうか?

 

曾皙そうせき 、公西赤こうせいせき

曾皙そうせき 孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉
孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉曾子そうしの父親で名は点。

公西赤こうせいせき孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉
姓は公西、名は赤、あざ名は子華。
孔子より四十二歳わかい。

子路曾晳冉有公西華、侍坐、
子曰、以吾一日長乎爾、
無吾以也、居則曰、不吾知也、
如或知爾則何以哉、子路率爾而對曰、
千乘之國、攝乎大國之閒、加之以師旅、因之以飢饉、
由也爲之、比及三年、可使有勇且知方也、夫子哂之、
求爾何如、對曰、方六七十、如五六十、
求也爲之、比及三年、可使足民也、如其禮樂、以俟君子、
赤爾何如、對曰、非曰能之也、願學焉、
宗廟之事、如會同、端章甫、願爲小相焉、
點爾何如、鼓瑟希、鰹爾舍瑟而作、對曰、異乎三子者之撰、
子曰、何傷乎、亦各言其志也、
曰、莫春者春服既成、得冠者五六人童子六七人、
浴乎沂、風乎舞雩、詠而歸、
夫子喟然歎曰、吾與點也、
三子者出、曾皙後、
曾皙曰、夫三子者之言何如、
子曰、亦各言其志也已矣、曰、夫子何哂由也、
子曰、爲國以禮、其言不讓、
是故哂之、唯求則非邦也與、
安見方六七十如五六十而非邦也者、
唯赤則非邦也與、
宗廟之事如會同非諸侯如之何、
赤也爲之小相、孰能爲之大相、

先進11-26

子路しろ曾皙そうせき
冉求ぜんきゅう公西赤こうせいせきとが
おそばにいた。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

四子侍坐図

先生がいわれた、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
わたしが
お前たちより
少し年うえ
だからといって、
遠慮をするな。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
ふだんいつもは

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
『わたしの真価を知ってくれない。』

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
といっているが、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
もし
だれか
お前たちのことを
知って
用いてくれた
としたら、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
どうするかな?

子路しろ
いきなりお答えしていった、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子路

戦闘兵車へいしゃ
せん
を出す程度の国

まん台を出すような大国
あいだはさまり

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子路
さらに
戦争が起こり
飢饉きがが重なる
というばあい、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子路
このわたくしが
それを治めれば、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子路
三年もたったころには、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

子路
その国民を
勇気があって
道をわきまえるように
させることができます❕

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
😊!ふふ~

先生は
そのことばに笑われた。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
冉求ぜんきゅう
お前はどうだね。

お答えしていった、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

冉求
六~七十里
五~六十里四方の
小さいところで
私が治めれば、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

冉求
三年もたったころには

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

冉求
人民を豊かに
ならせることが
できます。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

冉求
礼楽れいがくなどのことは、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

冉求
それは
君子に
たのみます。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

孔子
公西赤こうせいせき
お前はどうだね。

お答えしていった、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

公西赤
できるというのでは
ありません

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

公西赤
学びたいのです。

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

公西赤
宗廟そうびょう
おつとめや
諸侯しょこう
会合のとき、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

公西赤
たんの服をきて
章甫しょうほかんむりをつけ、

孔子の弟子たち、孔門十哲と「七十子」の言葉

公西赤
いささかの
助け役に
なりたいものです。

孔子
曾皙そうせき
お前はどうだね。

しつをひいていたのがとまると、
カタリとそれをおいて立ち上り、
お答えしていった、

曾皙
三人のような
立派なのと
違いますが。。

先生が

孔子
気にすることはない。
ただそれぞれに
抱負をのべるだけだ。

といわれると、

曾皙
春の終わりごろ、

曾皙
春着も
すっかり整うと、

曾皙
5~6人の
青年と

曾皙
6~7人の少年を
ともなって、

曾皙
沂水きすい
ゆあみをし、

曾皙
雨乞いに舞う台地の
あたりで涼みをして、

曾皙
歌いながら
帰って
参りましょぅ。

といった。

先生は

孔子
ああ~

感歎かんたんすると

孔子
わたしは
曾皙そうせき
賛成するよ。

といわれた。

三人が退出して、
曾皙そうせきがあとに残った。

曾皙そうせきはおたずねした、

曾皙
あの三人のことばは
どうなのでしょうか。

先生はいわれた、

孔子
ただそれぞれに抱負を
のべただけのことだよ。

曾皙
先生は
なぜ子路しろのことを
笑われたのでしょう。

孔子
国を治めるには
によるべきだが、

孔子

そのことばは
ぶしつけで

わきまえない
ようだ。

孔子
そのために笑ったのだ。

孔子
冉求ぜんきゅうのばあいでも
やはりくにではないか。

孔子
六、七十里か
五、六十里四方で
くにでないものが
どうしてあろう。

孔子
公西赤こうせいせきのばあいでも
やはりくにではないか。

孔子
宗廟そうびょうや会合が
諸侯しょこうのことでないとすれば
どういうことになろう。

孔子
ひとしく
国家のことだが、

孔子
この二人の
つつましさ
子路しろとは違う。

孔子

しかし、
公西赤こうせいせき

いささかの
助け役になるのなら、
一体だれが
大きな役になれようか。

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