中心とする長崎三福寺が、崇福寺の住職に空席が生じたことから、隠元に来てもらうことを頼んだ。
しかし、隠元は
弟子の也嬾性圭を派遣、
ところが
来日の途中、難破で命を失ってしまったのである
そこで、長崎興福寺(こうふくじ)の
逸然性融(いつねん しょうゆう)らは、
隠元の来日を熱望
二十人ほどの弟子を率いて、
1654年 7月5日に長崎へ来港した。
宇治に寺地を賜わることになる。
この地に建てた寺が、
今もその特異な中国風の造りで名を知られている
「黄檗山万福寺」である。
(寺号は、中国の黄檗山から取ったもの)
以来、
日本に長く留まることを決心した隠元は、
この万福寺で本格的な布教活動を開始した。
戒律が厳しく、
社会福祉を活発に行った
黄檗宗の禅風は、停滞気味だった従来の
臨済宗にも、強い影響を与えた。
江戸・羅漢寺(らかんじ)の施餓鬼会
(餓鬼道に堕ちた人を供養する法要)
は名物になり庶民の人気も高かった
1673年
後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)より
「大光普照国師」の号を授かる
82歳で亡くなった