『成唯識論』の万物唯識を説く。
「唯識」とは、ただ識ばかりという意味で、
一切万法が私の心から生まれ出たものであり、
私の心をはなれては一切の存在はなく、
一切万有が私の心そのものである と説く。
そして、認識作用をなすものとして
眼・耳・鼻・舌・身・意の六識をあげ、
その奥に
“末那識(まなしき)”
“阿頼耶識(あらやしき)”の二識を加える。
“末那識(まなしき)”とは、
時と所に応じて自我を自我たらしめる意識である
“阿頼耶識(あらやしき)”とは、
無限大な容(い)れ物という意味。
私たち人間の
「なすこと」(身業)
「いうこと」(口業)
「思うこと」(意業)の
すべての行為が、
経験として消えることなく残り、
煩悩(ぼんのう)となる存在が
種子(しゅうじ)として宿っている。
そして、この
“末那識(まなしき)”(自我意識)
と
“阿頼耶識(あらやしき)”
(煩悩の種子(しゅうじ)を宿している)
を
修行によって自覚し、
それを無「空」にすることによって悟りを得る。