松葉ヶ谷(まつばがやつ)法難
他宗の激しい怒りを買い
松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされてしまう。
伊豆法難
それでも、道端で布教活動を続けたが、
それを快く思わなかった幕府に
捕らえられ伊豆国伊東へ流罪となる。
日蓮は、伊豆に到着前に伊東沖の
「俎岩」という岩礁に置き去りにされた。
![日蓮宗_唱えよ南無法蓮華経、そして四大法難]()
しかし、漁師の弥三郎に助けられた。
小松原法難
安房国で布教活動を始めるが、
日蓮による念仏批判を受けて
激しく敵対心を抱いていた東条景信らが
日蓮一行を襲撃
日蓮の弟子と信者の2人が殺害され、
日蓮自身も額を斬られるとともに左手を骨折するなどの重傷を負う。
![日蓮宗_唱えよ南無法蓮華経、そして四大法難]()
龍ノ口法難
蒙古襲来の危機感が高まるなか、
再び『立正安国論』を著して鎌倉幕府に呈出した。
だが幕府は日蓮を捕縛し連行、
翌日の9月13日子丑の刻(午前2時前後)
日蓮を土牢から引き出し斬首しようとしたが、
江ノ島方より光の玉がやってきて、刑は中止されたという。
![日蓮宗_唱えよ南無法蓮華経、そして四大法難]()
その後、佐渡へと流罪となる。
流罪中の3年間に『開目抄』、
『観心本尊抄』などを著述。
また法華曼荼羅を完成させた。
1274年
佐渡流罪を許されたのちは、甲州(山梨県)身延山で
静かな余生を送るが、病気治療のため
常陸(茨城県)に湯治に赴く途中、
武蔵国池上(現在東京都台東区池上)で亡くなった。
日蓮の没後、
後事を託された弟子の六老僧
日昭、日朗、日興、
日向、日頂、日持は、
それぞれ、日蓮の教えの布教伝道につとめたが、
時代とともに内部抗争が起こり、いくつかの分派ができていく。