空海の著『即身成仏義』には、
大日如来(だいにちにょらい)と
身心ともに一体となって修行を実践すれば
この身、このまま仏になることができる
「即心成仏」の修行法が書いてある。
そこには
「六大」という物質要素である
地・水・火・風・空の5つに
精神的要素の「識」を加えたものや
「四曼」という、4種類の曼荼羅。
さらに三密といって
印を結び
真言を唱え
心で念じる など
奥深い内容となっている。
また、空海は
人間の精神的レベルを10段階に分けた
「十住心論」がある。
ここには、本能的な生き方から
道徳への自覚
宗教心への芽生えなど
よりよい人間になるための段階が示されている。
果たして、
空海の密教とは、どんなものだったのか?
その謎を見てみましょう。
即身成仏(そくしんじょうぶつ)
大日如来、
すなわち宇宙の真理から生命を授かり、
人間としてこの世に生まれた私たちが、
行を積むことによって、
自身が本来もっている仏性に目覚め、
本来の姿である仏になる。
密教以外の仏教(顕教)では、
仏になるということは、
自分が死んだあとに極楽浄土に生まれたり、
あるいは何度も何度も生まれかわり、
数々の修行で功徳を積まなければ
ならないとされています。
ところが密教では、
正しい修行を積めば誰でも
この身のままで仏になれるとしているのです。
秘密
法身の説は深奥なり、応化の教は浅略なり。
ゆえに秘と名づく。いわゆる秘密にしばらく二義あり。
一には衆生秘密、
二には如来秘密なり。衆生は無明妄想をもって
本性の真覚を覆蔵するが故に、
衆生の自秘という。応化の説法は機に逗って薬を施す。
言は虚からざるが故に。
ゆえに他受用身は内証を秘して、
その境を説きたまわず。すなわち等覚も希夷し、
十地も絶離せり。
これを如来秘密と名づく『弁顕密二教論』
それに比べてお釈迦様の教えは浅いものである。
そのため、法身の説かれた法を「秘」という。
いわゆる秘密には2つの意味がある。
1つは衆生秘密で、
2つには如来秘密である。
人々が根本的な無知妄想をもって
真実の悟りをおおい隠しているのが衆生秘密、
つまり人々がみずから秘めているものという。
また、
絶対者である大日如来は内なる悟りを秘めて、
その境地を説かないから、容易にうかがえないのである。
したがって、これを如来秘密という
「衆生秘密」は、
私たち人間は仏になれる仏性をもっているのに、
そのことに気づかずに、
みずからの本性を隠してしまっているというものです。
お釈迦様は法を説く相手に応じて説法していますから、
誰でもわかりやすい内容になっています。
しかし、
ある一面はいいあらわせても、
その本質に秘められた法の全てを
理解するには、言葉の限界があります。
「如来秘密」では、
大日如来は真理の世界から直に教えを説く仏です。
その内容は人間にはとれも理解できないため、
秘密なのです。
大日如来は、宇宙そのものなのです。
「顕薬は塵を払い、真言庫を開く」
『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』序文
煩悩の塵をぬぐって悟りを開かせるだけで、
それ以上でも以下でもないが、
密教の教えは悟りを開かせたうえで庫を開いて、
私たちに宇宙の本当の姿を見せてくれる
つまり密教とは、
即身成仏して宇宙の真理を知る仏教といえます。
即身成仏になるためには
六大無碍にして常に瑜伽なり、
四種曼荼おのおの離れず三密加持すれば速疾に顕わる、
重々帝網なるを即身と名づく『即身成仏義』
構成要素は溶けあっていて、
四種の宇宙の相である曼荼羅も離れることはない。
三密、すなわち、
身・口・意の3つの動きと
不思議の力へのつりあいがとれたとき、
悟りはすみやかに現われ、
すべてに及ぶ。これを即身成仏という。
密教の真髄は、無心に祈り一心に行をして、
自分で神秘体験に挑まない限りは、本質はわからない。
密教は行をして祈って祈って仏と一体となり、
仏の加護を得るという“祈り”の宗教である。
そこに、数々の奇蹟、不思議が生み出されてきたのです。
3つの側面
密教では、宇宙に存在するあらゆる物体を
「体」「相」「用」の3つの側面から
成り立っていると捉えています。
「体」というのは、
物体そのものです。
人間は人間そのものを指します。
これを「体大」ともいっています。
「相」というのは、
ものの姿、形です。
人間には、男性がいて、女性がいる。
子供も年寄りもいる。
これが「相」であり、
「相大」ともいいます。
「用」とは、
物体がそれぞれにもっている働き、
作用のことです。
寝て、起きて、ご飯を食べて、
勉強・遊び・仕事など
こうした働きを「用大」ともいいます。
このように密教では、
宇宙に存在する全物質には、
かならず
「体」「相」「用」
の3つの面があります。
これを先程の『即身成仏義』の言葉に
沿ってみていくことにします。
体六大(地・水・火・風・空・識)
密教では、この宇宙は
6つの構成要素から成り立っているとして、
これを
「六大体大」
と呼んでいます。
「六大」というのは、
「地・水・火・風・空・識」
の6つで、
このうち
「地・水・火・風・空」の
5つを「五大」といい、
物質的存在を表しています。
地すなわち固いもの、個体です。
水すなわち流れ下降するもの、液体。
火は燃え上がり上昇するもの。
風は動く気体。
空は空間です。
相四曼不離
宇宙には4つの姿があり、密教はそれを
4つの曼荼羅であらわしています。
「四曼」の曼とは曼荼羅のことです。
曼荼羅は
「大日如来を中心とした諸仏諸尊の配置図」
で宇宙の姿を表現しているのです。
4つの曼荼羅は
「大曼荼羅」「三摩耶曼荼羅」
「法曼荼羅」「羯磨曼荼羅」があります。
「大曼荼羅」は、
宇宙のあり方を仏の形象を描いて表現したもので、
金剛界曼荼羅(無限生産の男性原理を示す)と
胎蔵界曼荼羅(母体の生産力を示す)
の2つがあります。
どちらの曼荼羅も大日如来を中心に、
諸仏諸尊が極彩色であざやかに描かれています。
「三摩耶曼荼羅」は、
宇宙の姿をそれぞれの仏がもっている
標幟(のぼり、旗印)、刀剣、輪宝、金剛、蓮華など
を描いて象徴的にあらわしたものです。
「法曼荼羅」は、
諸仏諸尊の真言を梵字で表現したものです。
「羯磨曼荼羅」は、
諸仏の働きを示しているもので、
羯磨とは
サンスクリット語の「カルマ」を音写したもので、
所作・働きのことです。
視覚的に表した羯磨曼荼羅、
いわゆる立体曼荼羅
このように、曼荼羅は宇宙の実相を
4つの形で表現したものですが、
同じ1つの宇宙を4つの違う角度から観察したものなのです。
したがって、
宇宙は6つの構成要素から成り立ち、
4つの側面の形があります。
用三密加持と三力加持
仏教では、
私達の日常の行為や生活は、
すべて「身体」「言語」「心」の
3つの働きで成り立っているとしています。
これを「三業」(身業・口業・意業)といい、
業とは「カルマ」の訳語で
所作・働きという意味ですから、
肉体の働き、言葉の働き、心の働きのことをいいます。
しかし密教ではこの「三業」を
「三密」
(身蜜・語蜜・意蜜)と言っています。
法仏の三密は甚深微細にして
等覚十地(菩薩)も見聞すること能わず。
故に密という。
(中略)衆生の三密もまたかくのごとし『即身成仏義』
私たちにはうかがい知れないほど微妙で奥深い。
それは菩薩でも知ることはできない。
だから秘密であり、三密になる。私たち人間も本来は仏である。その仏である私たちの本当の
行動、言葉、考えも隠されていてわからない。だから秘密である。私たちの三業も本当は三密なのである
●三密加持
もし真言行者あってこの義を観察して、
手に印契を作し、
口に真言を誦し、
心三魔地(妄念を離れ、心が静寂安和の状態になること)
に住すれば、
三密相応して加持するが故に、
速く大悉地を得(願いごとがかなう)『即身成仏義』
これは、
三密加持のことを説いています。
三密加持とは、
手に印契を結び
(身蜜)、
口に真言と唱え
(語蜜)、
心に本尊を念じて
(意蜜)祈ることです。
(身蜜)印契を結ぶ
印契とは、
左右の十本の指を組み合わせて、
様々な形をつくること。
略して「印」とも言われています。
この印契は、
仏のさとりの境地を象徴的に示したもので、
その形は無数にある。
何故なら、
仏や菩薩が無数に存在するのだから、
その悟りの境地のシンボルである
印契も無数にあるのです。
智拳印
金剛界の大日如来の印。
煩悩を滅し、仏の智を得る印とされている。
法界定印
胎蔵界の大日如来の印。
禅定に入っているポーズ
合掌印
仏に帰依することをあらわす印。
両手の掌と指を合わせた合掌は、
さまざまな印契の基本とされるもので、
“十二合掌”
と言って十二種類があり、
あらゆる仏のさとりの境地に通じる印とされている。
(語蜜)真言陀羅尼をとなえる
密教では、
仏のことばを「真言」
また「陀羅尼」ともいい、
そこから「真言陀羅尼」ともいわれる。
私たち凡夫が、仏のことばである
「真言」をとなることによって、
私たちに仏の力が加持される。
大日如来(金剛界)の真言
オーン 金剛界(如来)よ、ヴァン
阿弥陀如来の真言
オーン 甘露の威光あるものよもたらせ、フーン
釈迦如来の真言
あまねき諸仏に帰命したてまつる、ブハハ
薬師如来の真言
オーン 除去せよ、除去せよ、旋陀羅女よ、摩登伽女よ、スヴァーハ
不動明王慈救呪
あまねき諸々の金剛に帰命したてまつる。
暴悪なる大忿怒尊よ、打ちくだけ フーン トラットハーン マーン
(意蜜)瞑想する
(意蜜)は「心密」ともいわれて、
仏になりきろうとする心の問題なのです。
密教では、
私たち凡夫が仏のさとりの境地へ
飛び込む方法として、
さまざまな“観法”を説いています。
“観法”とは、
すなわち瞑想のことです。
その代表的なものが
「入我我入」で、
このほか密教の大事な
“観法”として
「阿字観」があります。
「阿字観」というのは、
梵字(サンスクリット語)の
「ア 」という字を観じて、
私たちの心に、
本来備わっている“仏性”を自覚する観法です。
この「阿字観」のやり方は、
サンスクリット語の
「阿」字を前にして半跏で坐し、
手に“法界定印”を結び、
静かに瞑想する。
三密加持することにより、
修行者は
「六大」「四曼」であらわされる
宇宙の大生命と一体となり、
奇蹟・不思議を生み出す力を
もつことができるというのです。
こうしたさまざまな不思議を顕現することを
「三力加持」といいます。
●三力加持
「三力(さんりき)」とは、
仏が人を救いたい、
その人間の内部にある
仏性=宇宙のエネルギーを
解放させてあげたいと願う
加被力と、
行者や信者が自分を救ってほしい、
仏性を解放してほしいと祈る
功徳力
そして宇宙に遍満する力、
すなわち宇宙そのものが持つエネルギーである
法界力の
3つの力のことです。
したがって、
「三力加持」とは、
行者が「三密加持」をおこない、
この3つの力を合致させることで、
私たちに内在しているエネルギーが
正しい出口を見つけて一挙にほとばしり出て、
人間の知恵や力だけでは考えられない
不思議を生むということになるのです。
仏日の影衆生の心水に現ずるを加といい、
行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく『即身成仏義』
行者もし能くこの理趣(道理)を観察すれば,
三密相応するが故に現身に速疾に本音の
三身(仏の3つの姿、法身・報身・応身)
を顕現し證得す。
故に「速疾顕」と名づく『即身成仏義』
加持の原理をよく解して、
三密加持の行法をよくすれば、
この身このままで
いち早く仏になることができる
ということが
「即身成仏」なのです。
十住心論(じゅうじゅうしんろん)
空海の著作
『秘蔵宝鑰』
で述べられている。
本能的な生活から道徳への自覚
さらに宗教心の芽生え
小乗仏教から大乗仏教へ、
そして密教へと発展的に進む
人間の心の世界の述べ、仏教および
仏教以外の思想への教判を示したもの。
第一住心異生羝羊心
【倫理以前の世界】
無知な者は、
迷っているそのことさえも気づいておらず、
ただ金や食、人間関係のことだけに
執着している本能的な心のことをいう。
煩悩にまみれた心。
第二住心愚童持斎心
【儒教的境地】
他人から指摘されて食事の節制を守ったり、
礼儀をわきまえるように、
衝動的本能から人間的な生活に近づいた段階。
良心の芽生えに移っていく段階。
道徳の目覚め
第三住心嬰童無畏心
【宗教心の目覚め・インド哲学、老荘思想の境地】
あたかも幼児が母につきしたがって
一時の安心を覚えることにたとえている。
自分という存在の根本的な問題への解決へ向かっていく。
第四住心唯蘊無我心
【小乗仏教のうち声聞の境地】
ただもののみが実在することを知って、
自我の個体存在の実在を否定します。
ここから、
仏教における心の発達の順序が示されることになる。
第五住心抜業因種心
【小乗仏教の縁覚の境地】
一切は因縁より生じることを体得して、
無知を取り除きます。
迷いの世界を除いて、
ただひとり悟りの世界を得ます。
第六住心他縁大乗心
【大乗仏教のうち唯識・法相宗の境地】
一切衆生(しゅじょう)に対して、
はかり知れない愛の心を起こすことによって、
大いなる慈愛が初めて生じます。
すべてのものを幻影と観じて、
ただ心の働きのみが実在であるとします。
第四・五の心は“自利(じり)”の段階、
ここからは無我を徹底させて“利他(りた)”の慈悲にまで至ります。
これが大乗仏教の心です。
第七住心覚心不生心
【大乗仏教のうち中観・三論宗の境地】
あらゆる現象の実在を否定することによって、
固定化した実在に対する迷妄(めいもう)を断ち切り、
ひたすら空を観ずれば、心は静まって、
なんらの相なく安楽だといいます。
これが空の哲学です。
第八住心一道無為心
【大乗仏教のうち天台宗の境地】
現象は分け隔てなく清浄であるという認識の次元に達します。
そこにおいて、真に自由な実践ができるのです。
一道というのは唯一の仏の教えという意味で、
『法華経』の生命的世界観をさしています。
第九住心極無自性心
【大乗仏教のうち華厳宗の境地】
水はそれ自体定まらず、風があれば波となり、
器で形が変わります。万有をみるのです。
あらゆる存在は、
幾重にも組み合わさって成立しており、
そのままで真実とみます。
顕教では最高の心の世界。
第十住心秘密荘厳心
【 真言密教の境地】
みずからの心の根底を覚知し、
ありのままにみずからの身体の数量
(身体は数限りない仏の相互関係のうえで生まれているもの)
を悟(さと)るという、
無限無量の曼荼羅世界のことです。
秘密荘厳心とは、
即ちこれ究竟して自心の源底を覚知し、
実のごとく自身の数量を証悟す
自分の心をよくよく見つめるとき、
その源は仏の生命とその心にあることを覚知しなければならない
自分の数量とは、
自己の身体は数限りない仏の相互関係のうえに生まれているものであり、
一個の小さな身体も、
実をいうと広大なる仏の世界と同等の価値をもつものであることを説いています。