葛飾北斎

世界で一番知られている日本絵師と言えば、
この人!葛飾北斎です。

アメリカの有名な雑誌『LIFE』で
”この1000年で
最も重要な功績を残した
世界の人物100人”から、
日本人で唯一入っているのが
葛飾北斎なのです。

思想家や科学者でなく
絵師が世界の100人に入っているのです。
凄いですね。

 

北斎が制作した浮世絵が
ヨーロッッパで紹介され
ジャポニスム(日本趣味)が起こりました。

そして、
ビンセント・ヴァン・ゴッホなどの
印象派に影響を与えましたね。

 

葛飾北斎は1760年9月23日
現在の墨田区亀沢あたりで生まれる。
幼名は時太郎。


1778年
19歳の年で、
浮世絵師・勝川春章の門下となる。

勝川春章は役者似顔絵の名手として活躍していた。
翌年には師・春章の1字をもらい
春朗しゅんろう」として浮世絵デビュー
しかし、
役者似顔絵は苦手だったようである。

葛飾北斎
市川鰕蔵の山賊
実は文覚上人
1791年

1792年 師・勝川春章が亡くなる。

その2年後(35歳の時に)、
兄弟子の勝川春好と喧嘩して
勝川一門を追われた。らしい

しかし、この前後から
狩野派の画法を学んだり
住吉派から大和絵を学んだり
『芥子園画伝』などから
中国絵画をも習得していたようである。

 

1795年
上方の琳派の流れをくむという
俵屋宗理そうりの画号を襲名、
この時「宗理風美人」を創り上げる。

葛飾北斎
夜鷹図

3年後、
門人の宗二に「宗理そうり」画号を譲る。

 

1804年
45歳の北斎は、
江戸音羽護国寺において
120畳敷の紙に半身達磨図を描き評判となる。

このパフォーマンスは、
地上で見ている人には
何を描いているかわからず、
本堂に昇って見て
はじめて達磨だとわかるものであった。


後にパフォーマンスは改善され、
1817年の名古屋西掛所にしかけいんでは、
制作した達磨図を滑車にかけて
スルスルと持ち上げて
地上にいる人にも見えるようにした。

この制作風景は
名古屋の高力猿猴庵こうりきえんこうあん
細かく記録をしている。

葛飾北斎
『北斎大画即書細図』
高力猿猴庵

 

1826年
オランダ商館医であるシーボルトが、
江戸に旅行した際に、
日本風俗の肉筆画を北斎に注文し15枚仕上げる。

 

1831年
70代になった北斎は、
次々と代表作を作り出す。

《富嶽三十六景》

千絵ちえの海》

《諸国滝廻り》

《諸国名橋奇覧めいきょうきらん

《百物語》


1842年
83歳を迎えた北斎は
魔除けのために日課として
獅子を描き続ける。
日新除魔にっしんじょま

日新除魔

 

1849年4月18日
北斎90歳で亡くなる。

葛飾北斎
あと10年、
いや5年でよいから
生きさせてくれ、
そうすれば
真の画工
となれるのだから


北斎という画号は、
彼の生涯の中では、
ほんの一時しか使っていない。
彼の画号は、
「春朗」「群馬亭」「宗理」「可侯」
「百琳」「戴斗」「不染居」「為一」
「画狂人」「画狂老人」「卍」など改名をくりかえした。

その理由は、
金に困って門人に譲って収入を得たという説もある。

また、
生涯に93回の引っ越しをした転移癖もある。

 

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